みなさまごきげんよう。
フェルディナント・ヤマグチでございます。
F1にニュルブルクリンク、と試乗記ではない記事が続いておりますが、ここへ来てまたまた魅力的なご提案をいただきました。「八甲田雪中行軍遭難事件のルートを空からたどる」というものであります。
(編注:「八甲田山」ではなく「八甲田」でいいのですかと第9師団広報の方に確認したところ、「映画で『八甲田山』という名前が有名になりましたが、これは八つの峰を持つ連峰で、八甲田山という山は存在せず、地域として『八甲田』と呼びます」とのことでした)
ご案内いただくのは陸上自衛隊第9師団司令部第3部長の山﨑潤1等陸佐。
山﨑閣下は、10式戦車の試乗やら(ハイドロニューマチック・サスペンションで非常に柔らかい乗り心地でした)、レンジャー検定の受検やら(落第しました……)、大型輸送ヘリのチヌーク搭乗やら(時の防衛大臣とご一緒させていただきました)、得難い経験を次々と実現してくださる、私にとっては神様のような存在です。取材を通して知り合ったのですが、個人的にも非常に親しくしていただいておりまして、機会を見付けては呑みに出かけたりする間柄です。

彼が青森駐屯地に赴任してから、既に2年以上が経過しています。自衛隊の人事ローテーションからすると、そろそろ異動の時期になる。「異動される前に、なにか青森でひとつ」と超ザックリしたお願いをしていたら、「それじゃ」とご提案いただいたのが今回の企画というわけです。
実は八甲田の冬季演習は先の大戦から20年たった1965年から行われており、1972年には旧陸軍青森歩兵第5聯隊が本来辿る予定だったルートを使用した訓練が実施されています。今年の1月にも「第9師団冬季集中八甲田演習」として、同ルートにスキーで挑む演習が行われていて、その同行取材のご提案もいただいていたのですが、私の本業の都合で泣く泣く参加を見送った背景があったのです。山﨑閣下はそれを覚えていてくださり、今回の企画につながった、というわけです。

八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)に起きた210名中199名が死亡するという世界最大級の山岳遭難事故です。
この悲劇に関しては、本や映画で既にたくさんの情報がありますが、ここで少し当時の時代背景についてお話しておきましょう。
1895年(明治28年)に日本が日清戦争に勝利した後、清国を巡って列強諸国がその覇権を水面下で争っていました。特に当時のロシアは、極東において露骨な南下政策を進めていたので、大陸進出を目指していた日本とは激しく利益が相反していたのです。
日清講和条約(下関条約)により、日本は清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島などを割譲されたのですが、講和直後に日本の勢力拡大を快く思わないロシア帝国、ドイツ帝国、フランスから横やりが入り(三国干渉というヤツです)、日本は遼東半島を清国に返還することになりました。
Powered by リゾーム?