みなさまごきげんよう。
フェルディナント・ヤマグチでございます。
今週も明るく楽しくヨタ話からまいりましょう。
山形県の月山でスキー滑走中に転倒して、頸椎を骨折した事故の原因が明らかになってきたのでご報告を。
滑走中に片方の板がパカっと外れ、コントロールを失った状態でもう片方の板が次のコブに突き刺さって頭頂部から転倒したのが理由なのですが(ここまでは自分のことですから十分に分かっています)、それにしても不可解なのは、「なぜあの場所で板が外れてしまったのか」ということでした。
別にバランスを崩したわけでも、コブの横腹で板が不自然にブレたわけでもありません。ただただ突然に板がパカっと外れてしまったのです。5月中旬の月山ですから、当然雪はグシャグシャです。それにしてもあの外れ方は異常です。
スキーに詳しい友人何人かと話していたら、カンダハー本店の鈴木くんが、「フェルさん、もしかしてブーツの踵が摩耗していませんか?」と。
「踵が減っていると、ビンディングがブーツを正しくつかむことができませんからね。ご自分のブーツをちょっと確かめてみてください」と。で、確かめてみたら、あれまあ……ものの見事に踵がすり減っている。
舗装路をたくさん歩いたので摩耗してしまったブーツの踵。こりゃブーツを新調しなければいけませんな。
「スキーブーツはあくまでもスキー用です。舗装路を歩くようにはできていない。僕は仕事柄ゲレンデ周辺を歩き回ることが多いので、あらかじめ摩耗に強いプレートを貼り付けています。減ってきたらプレートを交換すればいい。踵の位置が上がってしまうので、国体等の公式競技に出ることはできなくなりますが、これから国体に出場する予定はありませんよね(笑)。それなら僕がやりましょう。今のブーツがお気に入りなら、パテで盛ってから貼りつけます。もし買い直すなら、新品の時点から貼りましょう」
カンダハー鈴木くんのブーツ。なるほどこうやって加工するんですな。
「ブーツを加工するのに抵抗があるのなら、こんな商品もあります。若干船底になっているので素の状態のブーツよりも格段に歩きやすい。ゴムで伸びるようになっているのでフリーサイズです。宿から出るときは乾燥室の椅子で履けるからいいのですが、問題は帰りですね。僕はデブなので腹がつかえてしまって履きづらいんですよ。え? 地面に座れば、ですって? いや、いったん地べたに座ってしまうと、自力ではなかなか立ち上がれないんです(笑)。それでプレートを付けているんですよ。ていうか、あまりムチャをせんでくださいよ。ケガをしたらスキーもクソもないんですから」
こちらは摩耗防止の歩行時プロテクター。いろんな商品があるものです。忘れ物大王の私はプレート一択ですね。鈴木くん、その節はよろしくね!
日産から台湾の裕隆汽車に移籍され、同社が展開する高級車ブランド「LUXGEN」の開発を統括されている水野和敏さんにインタビューをいたしました。高齢者の運転するプリウスの事故が続いていますが、私は「プリウスがたくさん売れているのだから、単純に確率の問題ですよね」と投げかけると、水野さんは「とんでもない! あれはプリウスの問題だよ!」と。EV特有の“ある問題”が事故の遠因であると言うのです。詳しくは「ベストカー」連載の「ザ・インタビュー」で!
「え? 頸椎を折ったって? ははは。そんなのケガの内に入らないよ。ツバ付けとけば治るよ。俺なんか長野でモーグルをやっていたから、体中の骨を十数箇所も折ってるよ。頸椎の椎間板はレースでみんなペシャンコだよ」。水野御大、相変わらずおっしゃることがムチャクチャです(笑)。
日産関係が続きますが、このたびめでたく日産の副社長に就任された星野朝子さんと会食してまいりました。日本債券信用銀行で国際金融の実務を積み、ノースウエスタン大学ケロッグ経営学大学院でMBAを取得。その後は社会調査研究所、インテージ等を経て2002年に日産に入社されたスーパーエリート。何と申しますか、この方はほとんど宇宙人です。いえもちろん良い意味で。興味深いお話をたくさん伺ったので、あらためてインタビューさせていただきたく存じます。
星野朝子副社長、日産広報部のみなさまと。いろいろ勉強になりました。ありがとうございました。
久しぶりにヨタが長くなってしまいましたが、本編へとまいりましょう。
今回お届けするのは、海外で活躍する天才児、名取鉄平選手のインタビューです。
名取鉄平。山梨県の産。2000年9月11日生まれの弱冠18歳。
この若きレーシングドライバーは、F1のシートを目指して今年からFIAのF3に参戦している。名取氏は2017年のスーパーFJ日本一決定戦で優勝し、その実績から佐藤琢磨氏が校長を、そして中野信治氏が副校長を務める鈴鹿サーキットレーシングスクールでスカラシップを獲得した。翌18年にはFIA-F4選手権に参戦し、初年度でランキング2位を獲得するという活躍をみせた。そして2019年。“満を持して”のF3参戦である。
インタビューはスペインはバルセロナ、カタロニア・サーキットで開催されたFIAーF3の開幕戦直後のモービルホームの中で行われた。
F:お疲れのところ申しわけございません。少しだけお話を聞かせてください。
名取選手(以下名):大丈夫ですよ。どうぞ。
F:18歳で海外で活躍されるというのは本当にすごいことだと思うのですが、名取さんは何歳からレースを始めているのですか?
名:レースを始めたのはちょっと遅めで、8歳からです。
F:8歳? 8歳で遅いんですか(笑)。
名:今のレースの世界では、もう8歳じゃぜんぜん遅いです。早い子は3歳から始めています。
F:3歳で始めるとなると、それは自分の意志ではないですよね。親がマニアで始めさせるという感じでしょうか。
名:他の子はどうか分かりませんが、僕は自分の意志で始めました。もう8歳だったので。自分で「これをやりたい!」という明確な思いがありました。ただ、環境はそれなりによかったのだと思います。父親がレース好きで、よく一緒に見に行ったりはしていましたので。それでたまたま富士スピードウェイのレース観戦の帰りに「オートパラダイス御殿場」というカートコースの横を通りかかって。
同年代のカートレースに「ヤラレタ」
F:あ、分かりますそこ。APGですね。坂道の途中にあるところ。
名:そこですそこです。そこの横を通りかかったら、僕と同じくらいの背格好の子たちがビュンビュン走っていて、それで思わず「僕もやりたい!」と(笑)。その日はたまたまカートレースの開催日で、大人のクラスもあれば、当時の僕くらいの年齢の子も走っている。これはショックでした。こんな世界があるのかと。そして僕と同じような年の子が、実際にレースに出て走っているのかと。
F:なるほど。ヤラレタという感じですか。
名:まさしく「ヤラレタ」です(笑)。僕の父親は運送会社をやっているので、トラックとはいえ家にはクルマがたくさん並んでいます。レースもよく見に行っていたし、何となく「クルマに関しては自分のほうが人よりもよく知っているぞ」というような、子供心にして変な自信のようなものがあったんです。だから余計に「これは絶対にやらなきゃ」と思ったのだと思います。それで父親にお願いして。
F:お父様はすぐに許してくださったのですか?
名:すぐにではありません。言い出したのが6歳のときで、実際に始めたのが8歳ですから、2年間言い続けていたことになります。父親はその間に、どれくらい本気なのかを見ていたのかもしれません。8歳になってオートパラダイス御殿場に通うようになって、練習はずっとそこでやっていました。「カデット」という子供用のクラスで。
F:ご両親はいわゆる「ステージママ、ステージパパ」のように、ベッタリ張り付いてサポートしてくださったのですか。
名:子供だったので送り迎えはしてもらいましたが、あまりベッタリという感じではありませんでした。順位もあまり気にしている様子はありませんでした。他の子のお父さんなんかは、子供が負けてくるとビンタしているような人もいましたが、僕の父親はむしろ勝敗には無関心でした。
F:お父様は昔レースをやっていたとか、そういう方なのですか?
名:いや、それが全然。父はレースにはまったく関係ないです。トラックの運転はするかもしれませんが(笑)。で、そこで練習を始めて、1年後のレースで優勝できたんです。
F:1年で! すごい!
名:あくまでも地方戦、しかも小学生クラスでの話ですが、それでもやっぱりレースで勝つのってものすごく嬉しいんです。それでどんどんハマっていって、翌年の2011年には全日本に出るようになりました。そこでその年は2回優勝して、シリーズでも2位になって。徐々に勝ち進んでいったんです。
F:それでSRSに入って、スカラシップも獲得して。すごいな。順風満帆のトントン拍子じゃないですか。
名:そう言えればカッコいいんですが、実は僕、1回挫折しているんですよ。SRSで1回落ちているんです。本来なら1回落ちた人はそのままサヨウナラで、二度と入校できるチャンスはないんですが、僕の場合は一番年齢が下だったこともあって、「もう1回来たらどう?」と特例的に声を掛けていただいたんです。
F:来たらどう? と言うからには、無料なんですよね。
名:いえ、無料ではありません。大変なお金を払わなければいけません。でもこのチャンスを逃したらもう次はない。なんとしてもお金をかき集めてチャレンジするしかない。ここでコケたらホンダでチャレンジすることは二度とできなくなるわけです。後はトヨタに行くしか道はないんです。でも僕の将来の夢はF1なので。絶対にF1に行きたいので。そこはやはり実際にF1をやっているホンダに行きたいという思いが強くありました。だからホンダから「もう1回来てもいいよ」と言われたときには、もう心に決めていました。もう次はない。もう後がない。何が何でもやってやるぞ、と。
言っておくが、これは18歳の青年が話す言葉である。私の息子よりも年下の、高校を出たばかりの兄ちゃんが話す言葉である。それなのにこの決意はどうだ。この覚悟はどこから来るのか。
F:あの……F1にはそんなに行きたいですか……。
名:レースを始めてから、もうそれしか思っていないです。そうですね、物心がついた10歳のころから、それしか目指していないです。僕の人生からレースを取ったら、本当に何も残りません。中身スカスカのカラッポです(笑)。
F:名取さんからレースを取り上げたら、ただの兄ちゃんということですか。
名:いや、ただの兄ちゃんですらありません。中身の9割はレースでできていますので。
大事なことを引き寄せる力
F:常にレースのことばかりを考えているのですか。
名:もちろんそうです。部屋に帰ったら、レースの動画を振り返って反省するべきところは反省して、そして明日はどうするべきかを考えて。これはもう子供のころからやっている習慣です。これを毎日やっているんです。
F:すごい。それだけの強い思いがあれば、きっとF1に行けますね。
名:いや、そんなに甘くないです。これくらいのことはF1を目指している誰もがやっていることですし、誰もが思っていることです。もちろん高度なドライビングスキルが必要ですし、資金面でのサポートも必要です。さらにそこにタイミングという要素も加わってきます。
F:タイミングというと……。
名:シートが空いていなければ、そこには座れませんよね。
F:あー……。
名:成績も大事、経済面も大事、そのほかにもこれから上にいくに従って、いろいろと大事なことが増えてくるのだと思います。そこを自分で何とかうまく、大事なことを引き寄せるようにしなければいけないなと思っています。
何度も言うが、これは18歳の青年が話す言葉である。
名取選手は2000年9月の生まれだから、今年は19歳になる年回り。
読者諸兄は大学1年の5月に何をしていただろう。
私は高2の5月から付き合っていた彼女にフラれて泣いていた。
ああ人生は穴だらけ。ホントに生まれてスミマセン。
F:事実上、今日が欧州におけるレースの初戦ですね。どうですか、今日の走りを振り返って。
名:世界から速い人間が集まってきているんです。去年のFIA-F4のチャンピオンとか、GP3に参加している選手とか、旧FIAのユーロフォーミュラにも参加している選手とか、本当にハイレベルを極めている選手がたくさん。その中で、やっぱり自分はまだまだであることを思い知りました。予選で28番手。今日のレースで23番手。足りない。足りないところばかりです。
名:日本のレースとこちらのレースは違いますか。
名:まったく別物です。もう日本は正直アレなんで……でもこれは言うとマズいので(苦笑)。
F:マズくない程度にお願いします。
名:いろんな意味で日本はキレイですよね。絶対に当ててこないし。
F:なれ合いになっているということですか。
広報松本:ちょっとちょっとフェルさん、ここは勘弁してよ。彼は将来がある身なんだから。
F:ですよね。この原稿がもとで名取さんが干されたりしたら責任問題です(笑)。
名:相手をはじき出してでも上にのし上がる。何が何でも上に行く、という思いが(欧州のレースでは)ものすごく強いですね。全員が全員、絶対にF1に行きたいと思っている。ほかの人を蹴落としてでも行こうという意識がとても強いです。それが30人ギシギシと走っているわけですからもう……。
F:うわぁ……。
名:自分はまだまだです。ここでヘコたれずに、自分をもっと奮い立たせて、何が今足りないのか、何がトップと違うのかを冷静に比較して、改善していくしかないですね。もっと英語を勉強しなければいけないし、メンタルもフィジカルももっともっと鍛えなくちゃいけない。やるべきことが山積みです。
夢が実現するとは、どういうことか?
F:もちろん運転の練習は死ぬほどするんですよね。
名:いや、それができないんですよ。FIA-F3って、F3、F4以上のクルマで練習してはいけないという取り決めがあるんですよ。遅いクルマに乗るのはいいんですけど。
F:えー! それじゃ練習にならないじゃないですか!
名:そうなんですよ。ただ変な取り決めがあって、練習はだめなんだけど、レースは出ていいよという、変なルールがあるんです。それで僕はユーロフォーミュラ・オープンという、昔のF3みたいなレースに練習代わりで出て、そこで実戦経験を積むということをやっています。
F:公道でポルシェとかランボに乗るのはいいんですか?
名:それはいいのですが、ハコだとあまり練習にならないし、それに僕、まだ免許を取って半年なんで(笑)。
F:なるほど。18歳ですものね。最後に一言教えてください。とてもクサイことを伺いますが、夢を実現するってどういうことだと思いますか。
名:自分で勝手に限界を決めないということだと思います。もっと先に、もう一歩先に。常に歩み続けることだと思います。自分の限界はここまでだと思うと、その瞬間に止まってしまいますから。でもごめんなさい。僕はこんなことを言う資格のない人間です。僕はまだ夢をつかんでいないので。
F:いつまでにF1に乗りたいですか?
名:20歳までには乗りたいです。実際に可能なんですよ、僕は既に日本で10ポイントを獲得しているので、このF3でチャンピオンになれれば、30ポイントが付与されて一発でF1行きの40ポイントを満たすことができるので。
F:素晴らしい! 頑張ってください。応援しています。
名:ありがとうございます。頑張ります。日本のみなさんも応援お願いします。必死で頑張っています。何が何でもF1に乗れるよう努力します。よろしくお願いします。
最近の若いヤツは……なんて言葉をよく聞くが、若いヤツにもこんなに頑張っている人がいるのです。インタビューを終えた後は、40歳近くも年下の青年に「オッサンも頑張ってくださいよ」と何やら諭されたような気がしたものです。
名取鉄平選手。弱冠18歳。期待しましょう。そして応援しましょう。
ああ、若いって素晴らしい。若い女の子と付き合いたい。
それではみなさままた来週。
キャンプと合わせてレース観戦はいかが?
こんにちは。AD高橋です。
実は私もレースは好き。でも最近なかなかサーキットに足を運べていないので、F1バルセロナGPやインディ500のレポートに目を通しているとウズウズしてきます。
私はセナ、プロスト、マンセルらがレースを盛り上げた1980年代後半のF1ブームでモータースポーツに目覚め、1990年代になるとグループAやN1耐久にハマり、富士や菅生、筑波などのサーキットに通いました。何回かCカーのレースも観戦に行きましたね。
当たり前ですが20代前半の小僧に月に何度もレース観戦する金などあるはずもなく、なんとか“仕事”で行く術を見つけようと企画を提案。媒体の性格上モータースポーツのレポートでは企画が通らなかったので、最初は某トップドライバーに連載を持っていただき、その後はレースクイーンを紹介するページを作るためにサーキットまで“取材”に行っていました。
日帰りで行けるサーキットならまだしも、宿泊を伴うとそれなりにお金を使うことになるモータースポーツ観戦。お金を節約するために車中泊している人も多いですが、オススメなのはキャンプとレース観戦を絡めて楽しんじゃうこと。
ツインリンクもてぎにはキャンプ場「森と星空のキャンプヴィレッジ」が併設されています。テントなどを自分たちで持ち込むのはもちろん、道具を持っていない初心者のためにレンタルも行っています。また、2段ベッドが備わるログキャビンに泊まるのも楽しそう。優雅な夜を楽しみたいならグランピングサイトを!予約はツインリンクもてぎの公式HP経由で行えます。
富士スピードウェイでは年に数回、レース開催日にサーキットでキャンプができるようにしています。今年は、8月のSUPER GT(8月3、4日)と10月のWEC(10月4~6日)になります。キャンプイン可能なレースではナイトシアターが開催されたりBBQハウスがオープンしたりと、レース以外の時間も楽しめるイベントが用意されます。
先日開催された富士SUPER TEC 24時間レースでは、夜通し行われるレースを見ながらキャンプができました。仲間とタープの中で談笑し、BBQを楽しみながら外でビールを飲む。こんなユルい雰囲気でのレース観戦も楽しそうです。
もちろんサーキット周辺には多くのキャンプ場があるので、たとえば土曜日は付近の自然を楽しんで夜はキャンプ、そして日曜日にレース観戦というプランもありだと思いますよ。
これからうだるような暑さが続く夏になりますが、標高の高いキャンプ場は夏でも涼しくて気持ちいいもの。ただサーキットは日差しを遮る場所が限られるので、熱中症対策などをしっかりしてレース観戦を楽しんでください!
(次回に続きます)
日経ビジネスから『カリスマ失墜 ゴーン帝国の20年』『マツダ 心を燃やす逆転の経営』の書籍2点を刊行!
『カリスマ失墜 ゴーン帝国の20年』
倒産寸前の日産自動車を再建し、カリスマ経営者の名を欲しいままにしたカルロス・ゴーン氏。2018年11月に突如逮捕され、権力の座から転落した。ゴーン氏とは、いったい何者だったのか? いかにして絶対権力を握ったのか? その功罪とは? 転落の背景には何があったのか? 「日経ビジネス」が追い続けた20年の軌跡から、ゴーン氏と日産・ルノー連合の実像に迫る。
『マツダ 心を燃やす逆転の経営』
「今に見ちょれ」──。拡大戦略が失敗し、値引き頼みのクルマ販売で業績は悪化、経営の主導権を外資に握られ、リストラを迫られる。マツダが1990年代後半に経験した“地獄”のような状況の中、理想のクルマづくりに心を燃やし、奮闘した人々がいた。復活のカギ「モノ造り革新」の仕掛け人、金井誠太氏(マツダ元会長、現相談役)がフランクに語り尽くす。改革に使われた数々の手法の詳しい解説コラム付き。
この記事はシリーズ「フェルディナント・ヤマグチの走りながら考える」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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