米アドビの「サブスク化」の成功がブームに火を付けた

 そしてもう1つの要因が、米アドビ(2018年にアドビシステムズから社名変更)の成功事例です。アドビはサブスクリプションの導入によって業績を大きく拡大させました。成功事例が大いに注目され、サブスクリプションブームの着火点となったのです。

 アドビがサブスクリプションへの移行に成功した理由を理解するには、そもそも同社が「誰に何を売っている(いた)のか」を押さえることが重要です。アドビの主力製品はサブスクリプションに移行するずっと前からPhotoshop(フォトショップ)とIllustrator(イラストレーター)というソフトウエアでした。フォトグラファーやデザイナーであれば誰もが知っているツールです。

 Photoshopはアドビが販売する写真画像の加工ソフトウエアで、パソコンで画像の色彩調整や、画像の合成といった様々な加工ができるツールです。同様に、Illustratorは、パソコンを使ってイラストを制作する際に必要なソフトウエアで、いずれも主として業務用として使われてきました。

 これらのソフトで制作される成果物は生活の身近な場所にあります。ポスターや雑誌といった印刷物のみならず、ウェブサイトに表示されるバナーやウェブサイトのデザインにも利用されるため、至る所にアドビの息がかかった制作物が存在しています。

 ここで重要なことは、PhotoshopやIllustratorはただのソフトウエアではなく、パソコンを扱うデザイナーにとって欠かせない「仕事の道具」だということです。アドビは単なるデザインツールを販売しているのではなく、デザイナーのキャリア形成に不可欠な“スキルのインフラ”を販売している会社といってよいでしょう。PhotoshopやIllustratorはデザイナー自身のキャリア形成にも影響を与える強力な商品なのです。こうした強力な中核製品の存在が長年アドビの業績を支えてきました。

 実際に東京都内のデザイン職の求人情報を「indeed」などの求人サイトで調べるとPhotoshopやIllustratorの実務経験が重視されていることが分かります。アドビのソフトを使えることが、デザイナーのキャリア形成の大前提となっているのです。

 こうした文脈に置いてみると、アドビがサブスクリプションを導入した理由や、それが成功した理由が見えてきます。 

 PhotoshopやIllustratorが抱えていた課題の1つは、その価格の高さでした。例えば、2008年ごろのアドビはPhotoshopとIllustratorがセットになった「Creative Suite 3 Design Premium」に約30万円という価格を設定していました。プロフェッショナルが必須とするツールの地位を確立していた業務用ソフトですから、売り手であるアドビが価格交渉力を握っていました。相対的に高い価格設定は一面では合理的な戦略と言えます。

 ところが、その半面でこうした価格設定は新しく入ってくるユーザーにとってはハードルが高いという難点がありました。画像やイラスト加工に興味があるビギナーは、高価なアドビの製品ではなく、他社の安い加工ソフトや、アドビ製品の海賊版を利用して制作活動にいそしんでいました。趣味のイラスト制作が気軽にアドビのソフトを利用することはできなかったのです。

 こうしたトレードオフを反映して、2013年ごろまでのアドビは、業績が安定的に推移していたにもかかわらず、株価は横ばいで、将来の成長に対する楽観材料に欠ける会社とみられていました。アドビが開発したウェブサイトにアニメーションを表示するFlashというソフトにアップルが非対応を宣言するなど、どちらかというと悲観的な材料が少なくありませんでした。

 停滞を打破するために、2013年にアドビは大きな決断を下します。それが「サブスクリプション」でした。アドビは売り切り型の製品として提供してきたPhotoshopやIllustratorなどのパッケージソフトの販売を中止し、10万円前後で販売していた高額パッケージソフトのビジネスと決別します。月額980円(税別)から利用できるサブスクリプションにビジネスモデルを完全に移行しました。パッケージとサブスクリプションを併用することなく、アドビはあえて退路を断ったのです。

 当時の日経ビジネス(2013年6月24日号 企業研究 米アドビシステムズ「高シェアをテコに他事業へ」)はアドビの決断について「明確なビジョンと確実な戦略立案を遂行してみせたアドビの方針転換は、まさに好例と言えそうだ」と評価しましたが、その時点ではアドビの決断が成功するのかは誰にも分かりませんでした。

 ご存じのように、2019年の時点で振り返ると、アドビの決断は吉と出ています。パッケージからの撤退を決めた2013年には一時的に売り上げを低下させたものの、2014年以降は早くも回復に転じました。それまで海賊版や他社製品を利用していた人たちの新しい需要を獲得することに成功し、アドビは大きく売り上げを伸ばしたのです。2016年の時点では、アドビのサブスクリプションの有料顧客のうち、30%がそれまでアドビ製品に触れたことがない層だったといいます(日経ビジネス2016年3月28日号 企業研究 アドビシステムズ「『成功』を捨て『失敗』を買う」)。

 アドビの成功は株価の推移にも表れています。2013年ごろには1株40〜50ドル付近を行き来していたアドビの株価は、2019年7月には一時300ドルを超えました。サブスクリプションの導入によって経営を再成長の軌道に乗せた企業として、株式市場からも大きく評価されました。

PDFという電子文書規格を世界に普及させた米アドビシステムズ。業績絶頂期に従来の成功モデルを捨て去り、大胆に生まれ変わった。デザインソフト世界最大手となった今も、失敗を恐れない。

出所:日経ビジネス2016年3月28日号 企業研究 アドビシステムズ「『成功』を捨て『失敗』を買う」。

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