「インド市場の攻略は難しい」。そんな嘆きにも似た声をよく耳にする。中国や東南アジアなど他の新興国の市場に目を向けると、大企業のみならず中堅・中小企業から個人事業まで、様々なビジネスの成功事例が積み重なっているが、インドは違う。「スズキ(マルチ・スズキ)」に「ホンダの2輪事業」、そして「ユニ・チャーム」「ダイキン」など、名前が挙がるのは限られた大企業ばかりで成功事例は正直なところ少ない。「実はうまくいっている」という中小企業もなくはないのだが、彼らは自分たちの事業状況を積極的には開示したがらない。
スーパーマーケットではユニ・チャームのおむつが山積みに
ではなぜインド市場は難しいのか。本題に入る前に、インドと日本企業との関係を改めて振り返ってみよう。商社は100年以上も前に拠点を構えており、1980年代にはスズキやホンダの2輪事業がいち早くインドに進出を始めた。だがその後の進出の動きは振るわなかった。2000年代前半に起きた、いわゆる「新興国ブーム」のときもインドに波は来なかった。日系企業は中国や東南アジア進出に忙しく、インドまで考える余裕はなかったのかもしれない。
2000年代半ばになって、やっとインドにも「プチブーム」がやってきた。幾つかの大型投資が実行され、これを契機に日本企業の「インド詣で」が流行した。だが、世界金融危機が起こり、その後インド経済が停滞するとブームはあっという間にしぼんでいった。
一筋縄では勝てない
「インドは難しい」。その見方は「プチブーム」期である2000年代後半から2010年にかけて実施された日系企業による多くの市場調査や視察の中で、ビジネスパーソンが漏らしてきた悲観的な言葉だ。
ではなぜ「難しい」のか。当時、インドの税制は国内で統一されておらず、州ごとに異なっていた。さらに産業構造は非効率かつ家族経営が中心で、文化慣習も地域ごとに全く異なる。インドは日本人には容易に理解できない複雑な市場だった。中国では上海、北京、広州の3都市を足場に内陸に向かって攻めるという定石があったが、インドの場合は主要都市が広い国土に散らばっており、攻め手が見いだしにくいという特徴もあった。
2014年にモディ首相が登場し、2017年に入ってようやく全国統一の税制である「GST」が導入されたことで状況は改善されたかに見えた。だがインド展開の難しさは依然として変わらない。個人的に最も厄介だと思う点は2点ある。1つは競合が既に巨大企業であること。そしてもう1つは価格圧力が極めて厳しい市場であるということだ。
特に主要産業では、世界でもガリバーと呼ばれるような企業がひしめき、地場企業も力をつけてきている。こうした企業が培ってきた販売網やブランド力は強力で、新規参入組は一筋縄では勝てない状況だ。一方で新興勢力も次々と台頭しており、これもまた市場攻略の難易度を上げている。
自動車産業でいえば、マルチ・スズキが50%近いシェアを握る巨人として君臨している。部品メーカーはいかに同社に自社製品を納入できるかどうかが鍵を握る。ただ輸入品では価格で太刀打ちできず、国内生産に踏み切ることがインド参入の前提ともいわれる。
家電ではLG電子やサムスン電子など韓国勢に加え、中国の海爾集団(ハイアール)も攻勢をかけている。日用消費財では英蘭ユニリーバ、スイスのネスレ、米プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)といったグローバル企業や、ITC(アイティーシー)、Parle(パルレ)、Godrej(ゴドレジ)、新興のPatanjali(パタンジャリ)など地場の巨人と対峙(たいじ)しなければならない。
価格圧力についてはどうか。都市部では徐々にラグジュアリーな製品も売れるようになってはきているが、全体的に見ればインドは価格重視の市場といえる。ガリバーたちは広大な国土を背景にスケールメリットを最大限発揮させることで価格圧力をしのいでいる。もっとも、その圧力はあまりに強く、皆が価格競争に陥り、サプライヤーにも厳しいプレッシャーが及ぶ。結果、誰も幸せそうに見えないというのは一つの事実ではある。
だからといって、価格を上げれば消費者はあっさりと安価な競合製品に流れてしまう。多くの日本企業はシェアを狙わず、付加価値の高い製品で粗利を確保したいと考える向きがある。ただ少なくともインドではその戦略はなかなか奏功しない。一製品当たりの粗利を落とし、数を稼ぐことで利益を確保するという薄利多売の考え方を受け入れる必要がある。
市場の変革者、続々登場
価格圧力に耐えられる体力のある企業や、既にここで緻密な販売網や調達網を作り上げている競合に伍(ご)して潤沢に資本を投下できる企業でなければ勝てない。それもまた事実だ。
とはいえ、インドは新規参入するプレーヤーが変化を起こし得ない市場かというと、必ずしもそうとはいえない。新しいポジションを確保したインド新興企業は確かに存在する。彼らは最初から大企業だったわけではないし、最初からよいポジションにあったわけでもない。
連載初回でもお話ししたように、インドの消費者は変化している。近年は特に価値観や意識の変化が著しい。これに対応し、新しい消費者にフィットする製品、サービスを開発できれば事業を拡大する余地が生まれる。
変化を象徴するのが、インターネットとスマートフォン(スマホ)の世界で起きた価格破壊だ。2016年、リライアンス・ジオ・インフォコムという企業が新しい通信キャリアを興し、データ通信価格を従来の10分の1ほどに引き下げた。誰もが気軽にスマートフォンを持ち、データ通信を当たり前のように使える世界が訪れ、その結果、ネットを活用した新しいサービスが相次ぎ台頭、浸透していった。
経済発展に伴ってミドルクラスが拡大していることも追い風だ。新しいスタイルの消費を始めようとする人々が数多くいる。広い国土と10億人を超える人口、そして多種多様な消費者を内包した国の消費に地殻変動が起きているわけだ。しかもインドは「課題のない産業はない」というくらい、解決すべき問題がいまだ山積している。既存産業に強いプレーヤーが多く存在していても、既存の商品、サービスがいくら強くても、その隙をついて競合の牙城を切り崩す方法はいくらでも見いだせるようになっている。
テクノロジーを武器に市場を変えた事例は数ある。通信に価格破壊を起こしたリライアンス・ジオにネット通販のFlipkart(フリップカート)、オンラインスーパーを定着させたBig Basket(ビッグバスケット)、そして配車サービスのOla(オラ)といった企業はその代表だ。
もっとも、市場に変化を起こして成功を収めたのはテクノロジーを前面に押し出した企業ばかりではない。
例えば航空産業。かつてはAir India(エア・インディア)というナショナルフラッグと、今年に入って経営破綻してしまったJet Airways(ジェット・エアウェイズ)というフルキャリアが国内航空産業の2大勢力として君臨していた。そこに殴り込みをかけたのがIndiGo(インディゴ)という2006年創業の新興の格安航空会社(LCC)だ。5~6年前まで「遅れることが当たり前、オンタイムで着くのは奇跡」といわれたインドの航空業界で定時運航を実現し、あっという間に顧客の信頼を勝ち取った。さらに今ではIndiGoのみならず、SpiceJet(スパイス・ジェット)やGoAir(ゴーエア)といったLCCがインド国内の航空産業で存在感を高めている。
ビール業界も大きく変わった。かつてはKingfisher(キングフィッシャー)という飲料会社がインドの津々浦々に販路を開拓し、圧倒的なシェアを誇っていた。2015年、これにBira(ビラ)という新興企業が挑んだ。サルの絵をモチーフにした若者にフレンドリーなブランドを開発し、デリーやムンバイ、バンガロールといった大都市部で攻勢をかけた。「ビールといえばキングフィッシャー」というイメージを新興ブランドが覆していく。その動きを個人的に驚きをもって私は見た。彼らは足元でより広範囲な層にアプローチすべく大衆向けのストロングビールやフレーバービールなど、商品のラインアップを拡充して地方都市にも進出している。
サルのマークが目を引く新興ビールブランド「Bira」
新しい市場を作り出すのに成功した企業も登場している。米国で働いていた夫婦がインドに戻って始めたWingreens(ウィングリーン)だ。彼らはハーブを育て、これを使った新しいディップのブランドを興した。ディップには様々なフレーバーがあるものの、インド定番のカレーフレーバーはほとんどない。ひよこ豆をすりつぶしたフムスとか、ギリシャ風に仕立てたカード(甘くないヨーグルト)のペーストなど、新しいフレーバーを展開。さらにディップをつけて食べるヘルシーチップスも提案したりして人気を博し、既に40都市に進出している。
Wingreensは「ディップを食べる」という新しいムーブメントを起こした
ディップを食べる習慣がなかった消費者にその魅力を訴えるため、店頭でディップを作り、そのフレッシュな味わいを楽しんでもらうことで購入に結びつけ、徐々にディップを楽しむ習慣を定着させていった。パッケージフードにも進出し、最近ではハーブ類を使ったフレーバーマヨネーズやフレーバーティーなども開発している。
「大視察時代」が残した教訓
ここで特筆すべきなのは、こうした「うねり」を起こしているのは大企業ではなく、起業家たちであるということだ。2000年代初頭あるいは中ごろから、起業家たちはインドの市場が持つポテンシャルを信じ、変革に向けてこつこつと準備してきた。試行錯誤を繰り返し、最初は小さく、そして場合によってはピボット(企業としての軸を維持しつつ戦略を転換してチャンスを探ること)を繰り返しながら5年、10年かけて事業を拡大させてきたのだ。
悔やまれるのは2008年前後、日系企業が相次ぎインドを訪れた「大視察時代」だ。日系企業もここで何がしかのチャレンジをしていれば成功したかもしれない。そう思える案件がたくさんあった。そんな案件ばかりだったと言ってもいい。しかも当時は「日本企業との面談」と言えばどんな産業でも喜んで時間をつくってくれた。一方、今インドではイノベーションが活発化し、事業展開のスピードは速まり、日本以外の国外企業も多く参入している。だから日系企業が面談を希望しても、インド側の反応は必ずしも芳しくない。
悲観的な話ばかりではない。日本勢が存在感を発揮している領域もある。
実はインドのスタートアップ、特にアーリーステージの起業家たちに資金を供給してきたのは日本の投資家たちだった。この動きは2008〜2010年から始まっている。2015年にシンガポールを拠点に立ち上げられた日系ベンチャーキャピタル(VC)、BEENEXTが出資するインドのスタートアップは既に60社を超えている。他にもインキュベイトファンド(東京・港)やリブライトパートナーズ(東京・千代田)などが積極的に新興企業を見いだして投資してきた。投資先の企業は着実に育っており、よい循環ができつつある。
ソフトバンクグループの動きも目立つ。大型投資を繰り返すだけではなく、QRコード決済を手がけるPaytmのテクノロジーを日本市場に持ち込んで決済サービス「PayPay(ペイペイ)」に生かしたり、ホテルベンチャーのOYOに日本展開を促したりと、インドのテック企業に日本市場参入の道筋を作る役割を果たしている。
インドのスタートアップ企業に投資する日印両政府肝煎りの「日印官民プロジェクト」もある。複数の投資信託を投資対象とするファンドオブファンズ(FoFs)で、スズキやみずほ銀行、日本生命保険、日本政策投資銀行といった大手が資金を拠出している。
アーリーステージにあるインドのスタートアップに真っ先に資金を投入してきた日本のVC、インキュベイトファンドの本間真彦・代表パートナーは、私財を投じて日本の経営者などとアジアの起業家とをつなぐ招待制のイベント「Asia Leaders Summit」を毎年アジア各地で開催している。今年7月、このイベントがようやくインドでも開かれた。
開催地はインド南部の都市バンガロール。テクノロジー企業が集積していることで知られる都市だ。ここに日本の経営者や投資家など約100人、インド側からは起業家を中心におよそ50人が集まった。日本からは楽天の北川拓也・常務執行役員やLINEの室山真一郎・執行役員、それにインドにいち早く注目し投資を開始したリブライトパートナーズのゼネラルパートナー、蛯原健氏などが登壇している。
本間氏は「優秀な日本の経営者がよりグローバルに活躍できるよう、お互いのことを理解する場を作る」ためにイベントを主催してきたという。ちなみに今回、日本の参加者の多くは初めてインドを訪れたようだ。日系企業がインドで新しい一歩を踏み出すためにも、こうした場でインドの息吹や可能性を身近に感じてもらうことは重要だと思っている。
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