大蘿さんはいつごろから、なぜインドに入ったのでしょうか。
Mistletoe Singapore(ミスルトウ・シンガポール)の大蘿淳司マネージング・ディレクター(以下、大蘿):私はアクセンチュアやコカ・コーラなどを経て、2003年にソフトバンクグループのヤフーに入社し、その後孫正義会長兼社長の下、12年にわたりグローバルにスタートアップ投資や海外スタートアップとの協業に携わってきました。社外役員に入っていたインドのモバイル広告スタートアップ、InMobi(インモビ)はユニコーン企業(評価額が10億ドルを超える未上場企業)にまで成長し、同じくインド人パートナーと創業したメッセンジャーアプリのHike(ハイク)は5年で1億人のユーザーを獲得。14億ドルの企業価値を持つ企業に育っています。

2016年にスタートアップ支援を手掛けるミスルトウにチーフ・グロース・オフィサーとして合流し、17年からシンガポールにグローバル本社を設立。現在はここを拠点にアジア各地でスタートアップ支援に携わっています。
10年前、既に孫正義会長兼社長は「インドは次の中国か、それ以上の市場になる」と見ていました。インドは中国と比べ20年ほど遅れているとはいえ、そのギャップは急速に縮まる可能性があったからです。ただ当時はスマートフォン(スマホ)は普及しておらず、携帯電話の通信速度も遅い。だから「インドが中国以上になる」なんてイメージは正直湧きませんでした。
孫会長兼社長は「明日にもインドに行け」「行けば分かる」と言う。さすがに明日というわけにはいきませんでしたが、3日後には行きましたよ。2010年のことです。正直インドの「イ」の字も知らぬまま、夜中に空港に降り立ちました。周囲のインド人を眺めると携帯電話で話している人はいるものの、スマホは見当たりません。日本では見たこともないノキアの端末が人々の手にはありました。
10年前というと、もちろんスマホもなければネットも遅く、さらに空港はおんぼろ、市内のインフラも貧弱だった頃ですね。そんなインドに入れ込むことになったのはなぜでしょう。
大蘿:孫会長兼社長からは「モバイルインターネットのサービスをがんがん立ち上げて先行するんだ」と発破をかけられていました。「何をやってもいい、でかくいけ」「最小でも10億ドルの企業価値を持つ企業をつくれ」と。
最初の数カ月はもちろん戸惑いましたよ。ただ1、2年で見方は変わりました。というよりも市場が急速に変わりました。モバイルインターネットの世界では第3世代移動通信システム(3G)が登場し、そしてすぐ4Gへ移行しました。さらに中国から100ドル以下の低価格スマホが次々と入ってきました。これによってインドは日本や米国が経験した「パソコンと有線ブロードバンド」の世界をいとも簡単にすっ飛ばしてしまったのです。一気にモバイルファーストの時代がやって来た。日本や米国で20年以上かかった変化が、たった数年で起きたわけです。
想像もつかないスピードで、あらゆるものがリープフロッグ(先進国をしのぐほど一気に技術革新が進むこと)していくと感じました。しかも人口が多く、中間所得層が急速に増加しているので、技術革新のインパクトも大きい。全ての産業が変わっていく実感がありました。
たとえば、今やインド最大のデジタル決済企業となったPaytm(ペイティーエム)。最初はキオスク端末を展開していましたが、間もなくスマホを活用したオンライン決済に移行し事業を急拡大させました。これはリープフロッグの好例でしょう。決済キオスク端末がスマホとモバイルインターネットに置き換わってしまったのですから。デジタル時代の到来により、プラットフォームという考え方が重要な役割を担うことが分かりました。
当時はどんな事業を展開していたのですか。
モバイルインターネットのサービスを立ち上げるということで、携帯通信大手Bharti Airtel(バーティ・エアテル)の親会社Bhartiグループと合弁会社Bharti Softbank Holdings(バーティ・ソフトバンク・ホールディングス、BSB)を設立し、コミュニケーションツールとしてのメッセンジャーやO2O(オンライン・トゥ・オフライン)のプラットフォーム、モバイルメディア、音楽、ゲーム事業などを重点的に展開していきました。米国や日本のインターネットの歴史を調べましたが、中でも特に参考にしたのが中国のインターネットの発展です。まだパソコンが中心ではありましたが、当時既にメッセンジャーアプリのWeChat(ウィーチャット)が急速に伸びていました。
当時インド最大の通信キャリアであったエアテルのポータルサイトも開発しました。担ったのは、100人ほどの日本人とインド人の混成チームです。ここでメディアを展開し、音楽配信なども手掛けました。ネット通販を始める予定もありましたが、この領域には既にFlipkart(フリップカート)やSnapdeal(スナップディール)など競合が成長していたので、彼らと直接対峙することは避け、O2Oのプラットフォームを現地のスタートアップと共同で始めました。
当時から、あらゆる分野でオンラインとオフラインの垣根が消え、O2Oの時代が来るという確信がありました。当時のメンバーの1人は今、ハイパーローカルに何でも配達するサービスを手掛けるDUNZO(ドゥンゾー)というスタートアップの創業者として活躍しています。
BSBの最高経営責任者(CEO)を勤めた5年の間にメッセンジャーアプリは中国の騰訊控股(テンセント)の出資を受け10億ドルの企業価値をつけました。その他のサービスについても、後にエアテルグループにいい形で売却することができました。
日本の企業からすると、インドは攻略が難しい市場と捉えられるようです。
大蘿:歴史的に日本とインドは良い関係を保ってきました。また、少なくとも20年前までは日本の家電メーカーの存在感もありました。
ただ、私が見る限り、日本企業から派遣されてきた方々がどれほどインド市場開拓に本気になっていたかは疑問です。日本の本社に戻る日を指折り数えている方が多かった印象があるからです。一方で、韓国や中国の企業から来ている方々は片道切符でやってきます。だから死ぬ気でやる。これは勝負になりませんよね。片道切符でやってきた優秀な人間が、骨をうずめる覚悟で開拓する、そこまでやらないと成功はおぼつかないのかもしれません。
そもそも、日本を軸に他国を見る、という発想自体が問題です。日本の方はよく「普通」という言葉を口にしますが、日本の普通とか「常識」は世界から見れば「非常識」です。日本とインドの成功モデルは全然違う。これを体感するには自ら乗り込むしかありません。
大企業だろうが、スタートアップだろうが、日本で成功した後、これを引っさげてインドに行こうという考え方ではダメなんです。 会社の発祥は日本かもしれません。でも自社の技術や強みを生かそうとするならば、その市場に根付かなければならない。派遣された人は、そこに自分の人生を懸けないといけない。
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