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押井:そういう観客の無意識の不安の影を探り当てて、エンターテインメントにするのが我々の仕事なんだから。

そういう意味では、不安の影を探り当てたら、それはヒット作になるし、ビジネスにもつなげることができる。

押井:そう。マーベルの映画の「アイアンマン」や「キャプテン・アメリカ」、「アベンジャーズ」。あれが大ヒットを続けている背景には、間違いなく意図的に、「米国の社会が抱える不安」を練り込んでいることがある。はっきり「そういう映画」なのは「ウィンター・ソルジャー」くらいだけど。

 映画は時代の不安を記録する。それは、お上が作る公式記録映画ではなく、エンタメの中に、手を替え品を替えて入れ込まれている「記憶装置」なんだ。

なるほど。

押井:映画で記憶を保存し、当時の不安とウソ偽りなく向き合う。このことの価値は欧州の方がはるかに深く理解している。イタリア映画のネオリアリズム、「自転車泥棒」(50)なんかもまさしくそう。特にイタリアは延々と「戦後映画」を繰り返してきた歴史がある。(フェデリコ・)フェリーニなんて人はそこから出てきた人なんだよ。「イタリアの戦後を語ろう」っていうさ。

 第二次大戦後のフランス映画なんか、不安のタイムカプセルだね。といってもフランスのレジスタンス映画なんて全部ウソっぱちで、ほとんどそれらしいことをやってない。あれはただの神話を作っただけ。一方で「フィルム・ノワール」の巨匠、ジャン=ピエール・メルヴィルは生涯をかけてレジスタンスを描いた監督だよ。

えっ、ギャング映画の監督ですよね。

押井:ギャング映画の形を借りて、実はレジスタンスの真の姿を延々と追い続けた。本人もレジスタンスをやってたそうだけど。フランスのルイ・マルとかあの辺の監督たちって、やっぱり戦後の世界から出発しているんですよ。ヨーロッパはしつこいから、いまだにやっている人もいる。そういう、戦後というものをずっと抱えて映画を作り続けるっていう系譜は、少なくとも邦画の世界ではほぼ絶滅した。世代を超えられなかったよね。

 だけど、そういう大切な歴史や不安の記憶を保存するために、映画は機能しなくちゃならない。もちろんそれを、大それたところで上映する文化映画とか社会派の映画じゃなくて、エンタメでやれよって話なんだよ。

日本の戦争映画は「みんなが被害者」意識で作られている

 とは言え、今の日本で戦争映画を作るって言ったら、どんなものが可能だと思う?

「男たちの大和/YAMATO」(05)とか、いくつも大作の「戦争映画」は存在しますよね。

押井:それは大戦中を追っかける……要するに本当に「大戦中」をテーマにした映画だよ。そういう映画は「戦争を語る」意識がゼロでしょう。ただの浪花節というか、5分に1回は愁嘆場。田舎のカアちゃんから参謀本部に至るまで、出てくる人間のほとんどが泣いているっていうさ。「みんな可哀想」っていうだけのただの愁嘆場映画。戦後、鈴木京香が大和の沈没現場に行くっていう基本設定はなんのためにあったんだよ。何も語ってないじゃないの。大和があそこで沈んだことの意味について、誰も何一つ語ってない。「みんなが被害者だ」って、みんなが被害者であるわけないじゃん。

それは……落としどころとして「みんなが被害者だ」ということにすれば、誰からも文句は出ないであろう、ということなんですかね。

押井:そういうことですよ。そもそも、あの映画で日本は誰と戦ってるんだよ。じゃあ加害者は誰だっていう話になっても、「アメリカ」とは言えないわけだ。だから全然描かない。人間としてアメリカ側が誰も出てこない。そんなんでまともな戦争映画になるわけがないよ。

ああ、分かってきました。言い方を変えると、第三者として戦争を見る映画は、監督の言うところの「タイムカプセルにはならない」ということですかね。

押井:そう。前回の連載でも言ったけれど、シミュレーターとして使えるのがいい映画。ある状況で、今回だったら戦争を行っている社会の中で、自分だったらどう感じるか、どう行動するのかを考える。ひいては観た人が、今、自分を取り巻く状況に似たものがないか、と不安になってしまう。そういうのが戦争映画。でなければ、「第二次大戦を舞台にした」単なるエンタメ作品です。

今回の連載の意図が見えてきたところで、そろそろ最初の映画について、お話しいただきたいのですが。

押井:最初に取り上げる映画は、東宝の「世界大戦争」(61)にしようか。

いきなりど真ん中ですね。