全10891文字
(イラスト:西尾 鉄也)

(前回から読む

前回は、角川映画が日本の映画界に異業種から殴り込みをかけて、今で言う「メディアミックス」の先駆けとなったというお話をうかがいました。

押井:戦後の日本のメディアの世界にでかい風穴を開けた角川映画だけど、ひとつだけ欠けているものがあった。それは「配給」なんだよ。角川書店も配給だけは意のままにならなかった。大手の配給5社(東宝・東映・松竹・日活・大映)からは継子扱いされたんだよね。でも小屋(映画館)にかければ客はたくさん入るから、小屋主は角川映画をやりたがるわけだ。いわゆる旧勢力というか守旧派というか、古い配給会社と角川との軋轢というのはあまり語られてないけど、実は結構あったんだよ。

なぜ角川は配給と軋轢があったんですか。

押井:たぶん、春樹さん自身が配給まで手を広げたかったんだと思う。でも今と違って小屋と配給会社の結びつきが当時はまだ強かった。それぞれの配給会社が系列の小屋をそれなりに持ってたから、系列の小屋というのはそれぞれの配給会社の牙城だったんだよね。今はシネコン全盛になったから全然状況が違うけど、当時はなかなかそこに斬り込めなかった。だから配給ではかなり苦戦したはずなんだよ。

新参者は大変ですね。

押井:僕も人づてに聞いた話なんだけど、ある時に春樹さんが東宝や配給会社と手打ちをしたんだよ。日本の配給会社と角川春樹の間をとりもって「配給に関しては双方にメリットがあるんだから手を組んだほうがいいよ」と手打ちをしたと。その仲立ちをしたのが徳間書店の徳間康快さんなんですよ。

ほおー。そうなんですか。

押井:戦争と一緒で、停戦を仲介できる国というのはどちらよりも強くなくちゃいけない。日露戦争のときのアメリカみたいなもんですよ。第二次大戦のときには日米が戦っちゃったから、仲介する国がなかったわけだ。話をソ連に持っていったりとかいろいろやったわけだけど、成立するわけがないんだよ。両者よりも力がある第三者じゃなければ戦争の間に入れない。

徳間さんはそんなに力があったんですか。

押井:康快さんというのはフィクサーだったから。徳間書店の力というよりも康快さん自体のパワーだよね。正力松太郎の後といったら康快さんしかいなかった。そのちょっと小ぶりだったのが東北新社の植村伴次郎さんなんだよ。康快さんはとにかく傑物だったね。あんな人はもう日本には出てこないと思うよ。

フィクサーの系譜

押井:前にも言ったかもしれないけど、戦後のエンターテインメントの世界には絶えずフィクサーがいたわけ。戦後にテレビを立ち上げたり、プロ野球を立ち上げたり、日本の戦後の大きなエンターテインメントの流れをつくったのが正力松太郎。そしてそれを受け継いだのがテレビや新聞ではナベツネ(渡辺恒雄)。あとはジブリの後見人だった氏家(齊一郎)さん。この二人とも実は正力松太郎の番頭さんだったんだよ。正力さんの領袖だったわけ。

なるほど。

押井:そしてまったく独自に、読売新聞社を飛び出してアサヒ芸能社を作って、隠然たる力を持ってたのが徳間康快。その康快さんの最後の切り札がスタジオジブリだったんだよ。「ジブリにどんどん作らせろ」って言ってたのが康快さん。「徳間書店で映画を作るぞ」というところに斬り込んだのは、尾形(英夫)さんだけど、それをいわば「これは使える。これから倍々でやってくぞ」と一番最初に宣言したのは康快さんだった。今でも覚えてる。

それはいつの話ですか? 「風の谷のナウシカ」(1984)の頃とか?

押井:「ナウシカ」よりもっと後だよ。当時は「ナウシカ」自体まだどうなるかわからないものだったんだから。僕が覚えてるのは「もののけ姫」(1997)の舞台挨拶のときに康快さんがはっきり壇上から言ってた。「これからもっと広げていくんだ」みたいなことを言って、僕も腰を抜かした記憶がある。

確かあのときは宮崎さんが「もう辞める」と言ってましたよね。

押井:そんなものは毎回言ってるんだから(笑)。徳間康快さんというのは中国とのパイプもあったんだよね。だから中国とも手を組んだ。ほら、中国で大作作ったじゃん。井上靖の、なんだっけ?

「敦煌」(1988)ですね。

押井:「敦煌」とか、あと棋士の映画(「未完の対局」1982)もあったんだよ。

ありましたね。

押井:中国と手を組もうという、そういう背後に康快さんというのはすごい力があったらしいんだよね。僕も周辺から漏れ聞いているだけだけど。

押井さんは徳間康快さんに会われたことはあるんですか。