キツいですねえ。
押井:そうなると現場は結局、役者のスケジュールに従って映画を作るしかない。ジャニーズだったらレギュラー番組があるから「首都圏を離れないこと」とか言われて、地方ロケなんかもってのほか。そうやって売れてる役者を大量に使うということは、現場のスケジュールが複雑怪奇なパズルになるわけだ。
なぜいつも同じヘアスタイルなのか?
押井:僕の「首都決戦」だって結構大変だったんだから。あれだけ好き放題にキャスティングしたように見えても、映画ということになった瞬間から役者のスケジュールがすごいタイトだった。そうなると監督のやれることというのは、下手すると「現場の交通整理」しかない。本当だよ。「今日○○は夕方出しだ」とか言われたら、(出演者を現場から)出すためにそれまでに撮りきらなきゃいけない。しかもそれが個々でみんな違う。「この事務所のこの人を出すんだったらうちの事務所からは出せないから」とか事務所のバッティングもあったりするし。
パズルみたいですね。
押井:なぜそうなったかと言ったら、一般的には「芸能事務所が強くなった」といわれているわけだけど、その発言力を支えているのは映画に関して言えば配給会社だよ。「これこれこれだけの名前が並んでないとせいぜいこれだけの小屋だね」とか「うちじゃ配給できない」とか言ってくるから。映画なんて半分はキャストなんだからさ、そうなると当たり前だけど映画の性格が変わってくる。監督の希望に添ったキャスティングができなかったら、映画の意図が実現できるわけないじゃん。
だけど、その条件をのまないと映画が撮れないと。
押井:だから結局、「本来だったらこの若さの役じゃないんだけど……」みたいな苦渋の決断をせざるを得ないわけ。それこそキムタクじゃないけど、特攻隊員の役でも髪を切れないとかね。それやっちゃうと、映画が変わっちゃうじゃん。役所広司だってCMがあるから髪を全部切れないとかさ。僕がフランスの「カイエ・デュ・シネマ」かなんかの取材を受けたときにさ、向こうから真っ先に言われたのは「なぜ役所広司はいつも同じヘアスタイルなんだ?」というさ。
鋭い(笑)。
押井:向こうにしてみたらあり得ないんだよ。役によって髪形は当然変わるでしょと。ハリウッドに至っては体形まで変える。場合によってはノーメイクだってアリだというさ。そこに文句を言ってくるのは日本だけ。この間「Fukushima 50」(2020)を石川(光久)が見に行ってさ、「女優さんのメイクが変わらない。あれだけはすごい違和感があったんだけど」と言ってたけど、やっぱり事務所はメイクまで口を出すからね。「食事のシーンは勘弁してくれ」と言われたこともある。「なんで飯食っちゃいけないの?」って聞いたら「イメージじゃないから」だって。
難儀ですねえ。
押井:「うちの○○はこの役じゃできない」とか「知的な職業じゃないとダメ」とかさ。それで医者だ弁護士だジャーナリストだ、「ギリギリで刑事だ」とかね。だいたい女優がやりたがる4パターンだよね。医者か弁護士かジャーナリストか刑事。あとは政治家か。いくら主役でも八百屋のおかみさんじゃダメなわけだ(笑)。その時々で映画の縛りというのは多かれ少なかれあるもんだけど、今は本当に不自由だよ。いつも頭にきてるから、ついその話になっちゃうんだけどさ。
なんでもかんでも原作もの
押井:そこで話を戻すと、角川映画というのは、そういう業界の約束ごとを一度全部ならしちゃったわけだよね。「角川映画」というテーブルに乗っかればなんでもOKだというさ。高倉健が角川映画の主役を張るのもOK。健さんというのは東映の人だったのでは、とかは関係ないわけだよね。そういう意味で言うと突然現れた「映画の新しいテーブル」だったわけだ。なんでも乗っけちゃう。大原則として角川書店から出す原作じゃないとダメだけど、それ以外はフリーなわけだ。いろんな監督を使ったし、いろんな役者を使ったし、いろんなジャンルをやった。だから映画業界のなかに別の映画の世界を作ったわけだよね。
なるほど。
押井:その一方で、現在の「なんでもかんでも原作もの」という素地も角川映画が作ったと言えるよね。あれ以降、アニメもメディアミックスばっかりになった。製作委員会にも必ず出版社やテレビ局が入ってくる。「スカイ・クロラ」だって12社だったかな。「もうこれ以上入れない」って宣言しなきゃいけなかったぐらい。
でも製作委員会方式は僕に言わせりゃ諸悪の根源そのものだよ。だって「DVDはウチで」とか「おもちゃはウチで」とかそういう利権の奪い合いがあるわけじゃん。当たり前だけど、メリットがないと参加しないわけだから。なおかつリスクは分散したいと。現場はもうやりづらいったらありゃしない。
いろんな方向からリクエストが来るんですね。
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