押井:実際に康快さんに会ったことは2~3回ぐらい。とにかくこの人はフィクサーの系譜の最後の人だと思った。伴次郎さんもそれに近かったけど、全体的に康快さんよりひと回り小さい感じなの。伴次郎さんも日本でニューメディア……あの頃ハイビジョンのことをニューメディアって言ってたんだっけ。

言いましたねえ。

押井:伴次郎さんも絶えず新しいことをやろうとした。東北新社の社屋の屋上にデカいパラボラ立てて「これからは衛星の時代だ」ってやってさ。僕のやった実写パトの映画版「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」(2015、以下「首都決戦」)だって、あれも4K映画の第一号だったし。

ディズニーと原子力

押井:そういう「でっかいことをやるぞ」という人間は昔は結構いたわけだよね。そのひとりが角川春樹というおじさんだったんだよ。「これからは出版社も映画を作るんだ」と言って始めた。

 角川文庫を見ると、本の最後に出版の趣旨というかお言葉(「角川文庫発刊に際して」)があるじゃん。ああいう社会的使命を持つんだということが初代の父ちゃん(角川源義)からの社訓としてあったわけだよね。だけど春樹さんは「出版以外のことをやっちゃいかん」という先代の教えをあえて破ったわけだ。「これからは本を売るために映画を作るんだ」と。

新しいことをやるんだと。

押井:でも「本を売るために映画を作る」というのは、ほぼ方便だよ。本当はあの人自身が映画をやりたかったからだよね。だって自分で監督を何本もやってるんだもん。よせばいいのにさ。角川春樹事務所に移ってからでさえまた映画作ってるんだから。それがいい映画でお金が稼げていればよかったんだけど、絶えず屋台骨を揺るがす出来だったわけで(笑)。

 そういうタイプの経営者というのはある時期までいたんだよ。正力松太郎からナベツネがいて、氏家さんがいて、康快さんがいて、伴次郎さんがいて。言ってみればメディアに関わったフィクサーたち。正力松太郎というのは総理大臣を目指していた人なんだよ。ただあの人はA級戦犯に指定されて、巣鴨(プリズン)に入っていたから総理大臣にはなれなかった。つまり日本の戦後のフィクサーは政治の世界にもいたけど、エンタメの世界にもいたんだよ。正力さんとかは政治の世界にも顔を利かせていたわけだよね。

 あの人が戦後やったことというのは、エンターテインメントの大きな流れをつくったことと、あとひとつはもちろん原発ですよ。この二本立てなの。ジブリとディズニーの相性がいいというのは、実はそれなんだよね。

どういうことですか。

押井:ディズニーも実は原発推進にひと役買ってるから。ディズニーはミッキーマウスの原発のプロパガンダ映画(「我が友原子力」1957)を作ったし、日本中にそれを見せて回ったのは正力松太郎だから(※1958年正月に日本テレビで放送)。その流れで考えると日テレ、読売系列とジブリが結びつくというのは当然だし、結構根が深いんだよ。そういう意味で言えばジブリがここ20年間のエンタメの真ん中にいたことは間違いない。実写映画も遠く及ばないだけの数字を出してるわけだから。

敷居の高い配給会社

押井:それはともかく、角川春樹という人もそういう「新しいことをぶち上げる」タイプの一人だった。そして、他の同タイプの人たちと同じように最初は周囲の誰もが疑問視した。はっきり言って冷たかった。

そんなものがうまくいくはずがないと。「映画は映画屋が作るものだ」という発想なわけですよね。

押井:そう。プロダクションというか映画の現場の人間は違うけどね。現場の人間は仕事があるならなんでもOKで、大きい仕事をコンスタントに回してくれる会社は大歓迎だから。テレビ局だろうが出版社だろうが不動産屋だろうがなんだってOK。基本的に僕ら現場の人間は日銭で食ってる職人だから。

 ただ配給会社はそうは思わないんだよ。自分たちが戦前からやってきた映画というものを、言ってみれば「出版社ごときが」というさ。それはついこの間まで「バンダイみたいなおもちゃ屋が」と映画の世界で言われてたのと同じことだよね。最後までそう言われて、バンダイも配給で常に苦戦してた。

嫌な感じですねえ。

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