今回のお題は「仁義なき戦い」(1973)でお願いします。
押井:僕はあのシリーズが大好きで、全部見てるしブルーレイのボックスも持ってます。
今回改めて見直しましたが、やっぱり面白いですよね。このシリーズは全5作を2年ぐらいの間に立て続けに作っているというのも驚きです。
押井:深作欣二も若かったんだよね。誰か役者が……北大路欣也か松方弘樹だったか「監督も若かったし、俺たちも若かったから」とか言ってた。あっと言う間にボコボコ作ったの。勢いなんだよね。しかもああいう撮影だからさ。照明もヘチマもあるかみたいな。
この作品はノンフィクション的な原作があるんですよね。
押井:原作は当時有名だったんですよ。実録ものというヤツ。だけどそれ以前から日本映画の世界にはヤクザ映画の伝統というか系譜があるわけ。昔は「股旅もの」というジャンルもあって、それはヤクザ映画とは呼ばなかったけど、股旅ものとか任侠ものとかと系譜としてはつながっている。
最近は見ませんね、股旅もの。
押井:主人公は旅をしていて、一本独鈷の旅ガラス。日本の情緒的な世界。僕が好きな長谷川伸(小説家、劇作家。股旅ものを中心に活躍)の「瞼の母」(長谷川伸の戯曲。映画化もされた)とかね、親子とか、兄弟分とか親分子分の情。そういう日本的な情緒の世界を描いてたわけ。「清水の次郎長」(清水次郎長を主人公とするヤクザの抗争劇、浪曲や講談の人気演目だった)的な世界観ですよ。
懐かしい世界です。
押井:清水の次郎長とか「赤城の山も今宵限り」という国定忠治とか。僕も親父に連れられてさんざん見た(笑)。
そこが入り口なんですね。
押井:私立探偵をやってた親父が暇で暇で、僕が小学校から帰るのを待って「守、映画行くぞ」とかって連日連れていかれたんだよ。たぶんうちにいるとおふくろがうるさかったんだろうけど。親父は基本的にチャンバラ映画しか見なかったから、「新吾十番勝負」(59)とか「柳生武芸帳」(57)とかそういう映画を死ぬほど見た。あとたまにギャング映画。
お父さんはどうしてひとりで映画に行かないんですか?
押井:おふくろがうるさいからでしょ。僕は末っ子で学校から帰るのが一番早かったから。小学校の低学年だと午後の1時か2時には帰ってくるから、親父からすれば格好のアクセサリーですよ。口実というかさ。それと、親父の言うこと聞くのは僕だけだから(笑)。姉ちゃんや兄貴はとっくの昔に愛想を尽かしてた。
子どもの相手をするていで映画を見に行くお父さん(笑)。
押井:そういう小さい息子を連れて「柳生武芸帳」とか「新吾十番勝負」とか。それ以外だと第二東映とか新東宝。エロ映画ですよ。「黄線地帯」(60)、「黒線地帯」(60)とか見たからね。普通見せないよ(笑)。
見たんですか(笑)。
押井:親父のおかげで、邦画専門というか、チャンバラ・エロ専門小学生だったわけ。新東宝の修道院を舞台にしたレズビアン映画とかあったからね。プールサイドで抱き合ってキスシーンとか、いまだに覚えてる。だからマセガキになったんですよ。
押井監督の原点がそこにあるのかもしれません(笑)。
ヤクザ映画で語る「日本の戦後」
押井:そういう股旅ものなんかの伝統的なヤクザ映画を引きずりつつ、現代ヤクザを描いた作品がその頃ぼちぼち出始めたわけ。だけどいきなり「仁義なき戦い」が飛び出したんじゃなくて、その前にも現代ヤクザものはあったの(例:「現代やくざ 与太者の掟」(69)降旗康男監督、現代やくざシリーズ第一作で菅原文太の東映移籍後初主演映画)。東映の錚々たる巨匠たちが撮ったんだけど、これが伏線になってた。そういう現代ヤクザものという映画シリーズで何をやったかというと……当時の批評家たちがよく語ったんだけど、要するにヤクザの世界を借りて「日本の戦後」を語ったんだよね。
その「戦後」とはどういうものだったんでしょうか。
押井:「戦後日本の近代化路線と、それについていけない人間たち」という構図だよ。どんどん近代化していく日本の中で、行き場を失った人間たちの生き様みたいなもの。だいたい最後は悲劇というか、主人公たちが死んじゃって終わる。近代化に押し潰されていくわけだよね。ヤクザ映画で言うなら、大企業とか役人や警察なんかと癒着したりお金に走ったり、そういう近代化しつつあるヤクザの世界の中で、昔気質の義理だ人情だにこだわってた連中が抹殺されていく。そしてだいたい、主人公が最後に憤死して終わるんですよ。蜂の巣にされたりね。
(高倉)健さんの映画なんかもそうですか?
押井:健さんの「(昭和残侠伝)唐獅子牡丹」(66)とかあの辺は現代ヤクザよりも前、まだ任侠映画なんですよ。時代も現代じゃなくて、だいたい大正とか明治末とかそのぐらいの時代。だからみんな着流しを着てる。
着流しの「任侠映画」は、「現代ヤクザもの」よりも古いジャンルなんですね。
押井:現代ヤクザは着流しじゃないから、それがひとつの記号になってる。そういう「着流し系」はだいたい港湾の工事を仕切っててとか、そういう歴史があるんだけど、実はそれが明治以降の日本が抱えてた根本的な問題のひとつなんですよ。
どういうことでしょうか。
押井:港の整備とか道路とか、国主導、官主導でいろんなインフラ工事をやるわけだけど、そういうのを当時は全部地元のヤクザに仕切らせてたの。だから昔の着流し系の任侠映画というのは、だいたい港湾工事をめぐって企業役員と癒着した近代派と、地元の義理人情の守旧派……アラカン(嵐寛寿郎)が親分だったり……が対立して、守旧派が卑劣な罠にはめられる、というパターンが多い。最後は古い任侠系の義理人情を大事にする清く正しいヤクザが、役人や警察と結託した近代派ヤクザと対決する。
清く正しいヤクザって矛盾を感じます(笑)。
着流し任侠映画の様式美
押井:近代派がそういう土着勢力のヤクザを殲滅しようとして、最後は高倉健が反撃に殴り込んで、近代派の奴らを皆殺しにして、だいたい警察に御用になって終わり。
最後に捕まって終わりというのは、今の感覚とはだいぶ違う印象です。
押井:でもそれは当時それでみんな納得してたわけ。僕は納得してなかったけど。
殴り込みに行ったら、そこにいる全員を殺戮するわけですよね。
押井:皆殺しです。大量殺戮。だって完全に殺す気で行ってるんだもん。出来心でとかそんなわけないじゃん。ちゃんと行く前に腹にサラシを巻いて、タンスから長ドス出して、手ぬぐいで手に縛り付けるのよ。血糊で滑らないように。明らかに殺(や)る気まんまんなわけ。
ということは、捕まったらもう出て来れないと。
押井:出て来れないどころじゃないよ、死刑確実。そんなのどこに納得するんだよ、と当時から思ってた。そもそも、なんでおとなしくお縄につくのか。「あなた行かないで」って藤純子(現・富司純子)とかが一応言うけど、律義にサラシを巻いてあげたりとかね、黙って見交わす目と目とか。
わかってて誰も止めないわけですね。
押井:殴り込みに行くときにはだいたいなぜか雪が降るんだよ。そのシーンを歌舞伎や文楽になぞらえて「道行き」って言ったりするんだけどさ、撮影所の中でスポットライトだけで、ドスをぶら下げて、番傘差してね、そこに演歌が流れるんだよ。
様式美の世界。
押井:橋の袂で菅原文太とか池部良とかが待ち構えてて、黙って合流してさ。「俺も行くぜ」と。単独の場合もあるんだけど、ふたり連れの場合もある。なぜだか大勢で集合しては行かないのね。それやると凶器準備集合罪になるんだけどさ(笑)。最大限でふたりなんだよ。
「少人数殴り込み」にはわけがある
戦力は多いほうがいい気がするんですが。
押井:もちろん実際に殴り込むなら多いほうがいいけど、多すぎると撮るほうが収拾つかないから。殴り込む側が数が多いとどう撮っていいかわかんなくなるんだよ。実際、忠臣蔵の討ち入りシーンはあまり盛り上がらないでしょ。
ああ、確かに。
押井:大石内蔵助自身はしっかり構えてて、老臣、要するにおじいちゃんがまわりを固めてる。結局はせいぜい数人を中心に撮らざるを得ない。忠臣蔵の映画やドラマはずいぶん見たけど、これという決定打がないね。市川崑が「四十七人の刺客」(94)で、吉良邸内に迷路や水濠があったりと、変なことやってたくらい。だけどなんかやろうとしても「なんかやろうとしたのね」というレベルにしかならないんだよ。忠臣蔵はそこが難しい。
なるほど。
押井:だから、殴り込みが最大限ふたりだというのはよくわかる。誰を撮ればいいのかわかりやすいんだよ。寄ってたかって来る奴を迎え撃つだけでOKだから、殺陣として組み立てやすい。忠臣蔵みたいに隠れてるジジイを探しながら戦うというのは、映像にするのはなかなか難しいんだよ。
少人数で殴り込むのは撮影側の都合なんですね。
押井:でも、見せ場は最後の殺陣よりもその前の道行き。そこでみんな泣くの。感情が高まるところを演歌で高らかに歌う。あれはセルジオ・レオーネ(監督)のマカロニウエスタンみたいなもの。(オペラの)アリアと似てるんだよすごく。構造がよく似てる。その当時で言ったら高倉健の「唐獅子牡丹」とか「兄弟仁義」(66)とか……「兄弟仁義」は健さんじゃなかったか(北島三郎主演)。
あと、山下耕作監督の「(博奕打ち)総長賭博」(68)という任侠映画の集大成みたいな映画があるの。三島由紀夫がギリシャ悲劇にも通じるって絶賛したくらい、脚本がよくできてるんだよ。必然の糸に絡め取られて、主人公が悲劇を演じるというさ。すごく様式化されてて、「総長賭博」は一見の価値がある。
今度見てみます。
押井:でも普通に任侠ものの典型を求めるんだったら「唐獅子牡丹」とか「兄弟仁義」とかあの辺でいいんじゃない? 両方とも同じタイトルの主題歌がヒットしてるからね。どのぐらい評判になったかわかるでしょ。「唐獅子牡丹」は健さん自身が歌ってて、うまくはないんだけどやたらドスが利いててうなってるんだよ。だけどやっぱり北島三郎の「兄弟仁義」は僕もしびれた。アリアですよあれは。
すごい高評価ですね。
押井:北島三郎は海外からの評価が高いんだよ。向こうのミュージシャンが「ソウルがある。彼は偉大なソウルシンガーだ」って、間違ってはいないよね。節回しとかコブシとか、日本人の琴線をわしづかみにするところがあるわけだから。それはよくわかる。
量は質につながる
押井:そんな東映の任侠映画を見ていたのは、低所得者層のお兄ちゃんやオヤジたち。女性客は僕の記憶ではほとんどいなかった。とにかく鬱屈した若者たち、学生、無職、飲食店従業員とかそういう世界。某映画会社の社長曰く「柄の悪い客たち」って。
お客さんにそういうことを言うんですね(笑)。
押井:本当にそう言ったんだから。一定の人気を得て、そういうものが連綿と作られて、いくつか大傑作も残したわけ。だいたいそういう大量生産するジャンルは、たくさん作るために手を変え品を変えてやるから、結果的に傑作が生まれやすいんだよね。前にも言ったけど、ジャンルというのは成熟するんだよ。その過程で怪作、珍作、奇作、傑作、名作が生まれるというさ。それはプログラムピクチャー(公開予定のスケジュールに沿って量産される映画)だからこそ。
先程の「総長賭博」もシリーズものの一本(「博奕打ち」シリーズ)なんですね。脚本は「仁義なき戦い」と同じ笠原和夫で。
押井:そうそう。笠原和夫は「仁義なき」の前からずっと大御所だった。「総長賭博」は格調高くて様式化されてて、脚本に隙がなくて、キャスティングが重厚で、いかにも日本映画という映画。その一方で「博徒百人」(69)という、仮面ライダー総決起集会みたいな映画もある。
仮面ライダーは決起しないと思います(笑)。
押井:どんだけいるんだというさ(笑)。一個中隊は言いすぎだけど、何十人も仮面ライダーが出てくるのあるじゃん。全員に着せて撮るのって大変だと思うよ。昔から東映はそういうの好きなんだよね。集団戦闘というかさ。
押井さんも好きなんですか。
押井:僕は好きじゃない。だって傑作になるわけないんだもん。さっきの忠臣蔵と同じだよ。誰を撮って何やったらいいか、絶対わかんない。せいぜい「VSもの」が限界。「博徒百人」は、主役級が百人出るわけじゃないんだけど、そっち系の役者総出演みたいなすごい映画だったけど、あれを撮らされた監督は大変だったと思うよ。現場が大変。案の定ダルダルのとんでもない映画だったけどさ。
破綻するリスクを恐れない
その「博徒百人」シリーズは日活のようですね。
押井:あ、日活か。任侠ものや股旅ものは別に東映の専売特許だったわけでもないから。当時は堂々たる邦画のいちジャンルで、松竹も日活もやってた。
例えば鈴木清順が日活で撮った「刺青一代」(65)、高橋英樹のヤクザ映画だけど、これが様式化の極致なんだよ。有名なシーンがあって、殴り込みに行って襖をバーッと開ける。さらに襖があってバーッと開ける。次々に開けていくわけ。で、カメラがスーッと横に移動すると、廊下にダーッと敵が待ち構えてる。で、照明がパーンと変わったりとかね。清順だからそういう様式化されたヤクザ映画を撮ったんだけど、当時の映画青年が「清順すげえ」ってワアワア言った映画なの。
その頃はいろんな監督が任侠映画を撮ってたんですね。
押井:言ってみれば任侠映画とかヤクザ映画というのは、昔はどんな監督も一度は経験すべきものだったんだよ。市川崑だってもっと正統派の任侠映画を撮ったから。その一方で後に股旅ものの「木枯し紋次郎」(TV・72)とか「股旅」(73)とか、そういう大変化球も撮ったけど。時代劇だけど役者にカツラをつけさせないで、長髪で撮った。渡世人はヒッピーだというわけ。
あれは斬新でしたよね。
押井:市川崑という人はとにかく新しいことをやる人なんだよ。ある種のモダニスト。時々そういう変わったことをやるんだけど、僕に言わせれば、半分はスカ。破綻してる。
ええーっ、スカですか(笑)。
押井:僕は破綻してる映画のほうが好きだからいいんだけど。凡庸な映画は救いようがない。だけど破綻してる映画はいろんなことを学べる。だから破綻してる映画は大好きなの。何かやろうとすれば破綻するリスクを冒すのは当たり前なんだよ。
テーマを持って何かをやろうとすれば失敗することもあると。
押井:だから「破綻を恐れるな」といつも言ってるのに、辻本(貴則)とか田口(清隆)とか湯浅(弘章)とかヤマケン(山岸謙太郎)とかさ、あいつら小器用にまとめやがって。「まとめようとすんな! 勢いで撮れ!」って。勢いがある映画が破綻するのは当たり前じゃん。
邦画の王道・ヤクザ映画
押井:そもそもヤクザとか任侠とか、そういう日本映画の独特なアウトローな世界というか、日陰者の世界、これは邦画の正統派というか王道なんですよ。
日陰者が正統派ですか。
押井:邦画の黄金時代には「若様お姫様」という映画もなかったわけじゃないけどね。二枚目の若殿様とわがままだけど美しいお姫様が紆余曲折あって結ばれましたみたいな。しょうもない映画だけど需要はあったんですよ。当時日本は貧乏だったし、甘い夢物語も必要とされていたから。一方で、江戸時代とかもっと前から綿々と続く、日陰者たちの哀感をうたった映画。そういうのは義理人情がもれなくついてくるわけだ。江戸時代の近松(門左衛門)の心中物なんかみんなそうですよ。零落していった階級を主人公にして、でも純愛を貫いたとか、義理を貫いたとか。だいたい最後は死ぬんだけど。
確かに、歌舞伎や文楽ではそういうのが多いですね。
押井:その流れを汲んでいるから、日本映画というのは日陰者を扱ってきた映画がどちらかというと王道なんですよ。そういう長い長い歴史に連なるのが股旅ものであり、任侠映画であり、任侠映画の流れから実録ヤクザものというのが出てくる。ようやくそこにつながるわけ。
その流れの中では新しい路線ということになるわけですよね。
押井:さすがにいつまでも着流しはやってられないと思ったんだろうね。でも、ファンというのは永遠にやってほしいわけだ。今でもそうだけど「パトレイバー」だろうが「ガンダム」だろうが、ファンは永遠に同じことをやってほしいわけだよね。
自分が好きなものを永遠に見たいと。
押井:卒業する気なんかこれっぽっちもないんだよ。だけど健さんだって年を取るしさ、それに着流しが似合う役者がいなくなったんだよね。着流しというのは着こなすのが難しいんですよ。今の若い役者で、着流し以前に着物を着れるヤツなんて何人もいないよ。女優さんもそうだけど、だいたい(生地が)反物で足りないでしょ。
昔より体格がいいからですか?
押井:そうそう、昔より日本人が大きくなったから。だからひとつには、役者に着流しが合わなくなってきた。菅原文太だって最初は着流しをやってたんだけど、なんかもうひとつだったんだよね。小林旭とか高橋英樹もロマンポルノの前の日活で任侠映画をやってたけど、当時から鶴田浩二とかにボロクソに言われてたの。「着流しで歩くときにケツを振るな」とかね。やっぱりもうひとつなんですよ。
その時代の役者さんでも、すでにそうだったんですね。
押井:やっぱり和服の立ち姿、裾さばきとか帯の位置とかさ。体格がよければいいというもんじゃないんですよ。なで肩で、どちらかといえば足が短くて、膝から下で歩くみたいなね。チンピラじゃないんだからのし歩いちゃダメ。日本刀だって、チャンバラ映画みたいに振り回していいものじゃない。長ドスなんだから扱いが違うわけ。あとはやっぱり、親分を演じる大物俳優たちが払底しつつあった。
新しい路線で新規顧客を開拓
押井:だから実録ヤクザ路線がなぜできたかというと、キャスティングが限界に来たのかもしれないというのがひとつ。そしてあともうひとつは、新しい路線をつくりたかったんだよ。いつだって、どの映画会社だってそうなんだけど、新しい路線で新しい客層をつかみたい。映画会社だって企業だから、基本的には事業を拡大したい気は絶えずあるんだよね。
そりゃそうですよね。株主に配当もしないといけないし。
押井:撮影所もできる限り稼働させなきゃいけないし、食わせなきゃいけない人間もいっぱいいる。だからいろんな会社がいろんな路線を開拓するわけだよね。落ち目になった日活がロマンポルノをやったのだって同じ。東映も様々な路線をやたらいっぱい作ったんだから。忘れ去られようとしてるけど「東映ポルノ」というのもあった。
ありましたね。
押井:わざわざアメリカとかフランスからお姉ちゃんを呼んでまでポルノ映画をいっぱい作ったんだから。サンドラ・ジュリアンだったかな。なかなかいい人だったけど。あとアメリカで売れたぽっちゃりした、なんつったかな?
シャロン・ケリーですか。
押井:そうそう、それが梅宮辰夫と絡むんだけど(「色情トルコ日記」(74))、いきなりパラシュートで下りてくるんだよ? 何の設定もない。
すごい映画ですね(笑)。
押井:東映というのは面白い会社だけど、僕は一生縁がないだろうと思ってたんだよ。だけど「東京無国籍少女」(2015)で初めて組むことになった。
あれが初めてですか。
押井:あの撮影で初めて東京撮影所に行ったときに「撮影所の所長がお待ちです」とか言われて連れていかれてびびったんですよ(笑)。まあ、なんとかなるだろうと思ってさ。でもその所長というのが僕より若いんだよ。すごく腰が低くて、自らコーヒー入れてくれて「ひとつよろしくお願いします」みたいな。あとから聞いたんだけど「東映といったって、昔の怖い世界は関係ないですから」って。
そりゃそうですよね(笑)。
押井:そもそももう東映撮影所で東映の映画はほとんど撮ってないし。変わったんですよ。「恐ろしい所長とか恐ろしいプロデューサーとか、ヤクザみたいな役者が出る世界じゃありませんから」って言われて、その通りだった。なかなか面白い会社だったよ。いまだにキャスティング部があってとか、撮影所の名残があちこちにあるんだよね。撮影所も僕は撮りやすくて好きだった。
「ちゃんと売れそうに撮ってね」「もちろんです!」
押井:犯罪実録ものに限らず、当時の東映は売れそうだったらキワモノだろうがなんでもやりますという会社だった。映画青年たちはそれをみんな面白がってたんだよ。僕もそうだけど、片方でゴダールだベルイマンだアントニオーニだと語りながら、もう片方で東映の映画も追っかけてた。僕も当時は東映の実録ものはもちろん、日活ロマンポルノも第一作からほぼ見てた。
押井さんはピンク映画もずいぶん見に行ってたそうですが、エロ目的だったんですか? それとも映画的な欲望?
押井:そりゃもちろんエロいものを見たいというストレートな欲望もあったけど、映画青年だったから「どんな新しいことをやるんだろう?」という興味もあった。実際に手を変え品を変え新しいことをいろいろやったからね。
後のVシネマじゃないですが、最低限のエロさえ押さえてれば中身は割と自由ですからね。
押井:そうそう。日活ロマンポルノにはハードボイルドだってあったんですよ。長谷部安春とかね。「ダーティハリー」(1971)もどきの映画を作ったりとかさ、時代劇もあったし、いろんなことをやったのよ。そういう新しくできた路線というのは注目するに値した。だから東映の実録ものは「仁義なき戦い」はもちろん、だいたいもれなく見てるよ。「ルバング島の奇跡 陸軍中野学校」(74)とかね。
なんですかそれは。
押井:戦後、進駐軍の時代に米軍に対する抵抗組織があって、陸軍中野学校の残党が進駐軍に対するテロを計画していたとか、そういう映画を本当に気合入れて作ってたんだよ。それをあの人が帰国してきてすぐ公開したからね(元日本陸軍・小野田寛郎氏が74年3月に帰国、6月に映画公開)。だってネタ物だから、鮮度がすべてなんだよ。半年後に公開したって面白くないから速攻で撮って公開するの。そういうところが面白いと思った。東映はそういうの得意だったんだよね。だから「仁義なき戦い」が立て続けに撮られたのもお家芸みたいなものだよ。
今では考えられないスピード感です。
押井:昔のテレビがなかった頃、邦画はテレビと同じ役割をしてたんだよ。映画は毎週見に行くものだったから、週替わりで3本立てとか、すごい量産してたわけ。だからこそいろんな作品ができて、その中から珍作迷作駄作愚作がもれなく生まれる。企画を絞って売れそうなものを、なんてところには迷作とか怪作が生まれる余地なんかないんだよ。どんどん普通になっていくんだから。「よくわかんないけど本数が必要なんだから撮れ! 予算だけは守れ」という、そういうときこそ監督にとっては「やった!」とほくそ笑むときなんだよね。
押井さんがよく使う手ですね。
押井:僕はその手の映画が半分以上だから。「予算だけは守ってね」「大丈夫です、任せてください! でも中身はあんまり四の五の言わないでね」「ちゃんと売れそうに撮ってね」「もちろんです!」とか言ってさ。
一応「売れそうに撮る」とは言うわけですか。
押井:一応言う(笑)。「まあ、無理だよな」と思いながらさ。とにかくそういう新しい路線の映画の中から、「仁義なき戦い」も生まれたんだよ。
ようやく本題に入ろうというところですが、この続きは次回ということで。
(※次回は4月30日木曜日掲載予定です)
この記事はシリーズ「押井守の「映画で学ぶ現代史」」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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