錦の御旗。戊辰戦争の際、官軍は菊の紋をあしらった錦旗を押し立てて、関東に向かった(写真:Hassyoudo / PIXTA)
錦の御旗。戊辰戦争の際、官軍は菊の紋をあしらった錦旗を押し立てて、関東に向かった(写真:Hassyoudo / PIXTA)
今回のチェックポイント
  • ●「天皇は権力は失ったが権威は持ち続けた」という説がある。
  • ●後嵯峨天皇は、1221年の承久の乱に敗れ権威に傷が付いた天皇のありようを変えた。
  • ●「正親町天皇は織田信長と丁々発止とやりあった」との見方を検討する。

 今回のテーマは権威と権力です。

 キーパーソンは後嵯峨天皇と正親町(おおぎまち)天皇。

 天皇家が日本史においていつまで権力を持っていたのかを考えるのは重要です。古代の天皇は、君臨するだけで徴税できる強大な存在でした。しかし、1221年の承久の乱で後鳥羽上皇が幕府に負けたのを機に権威に傷がつき、「君臨」するだけでは十分ではなくなった。

 そこで、天皇の在り方を変えたのが後嵯峨天皇です。「君臨」する存在から「政治」をする存在に変わろうとしたのです。住民や社会にサービスを提供し、その代価として税金を取る存在になろうとした。さて、そのサービスとは何でしょう。

 その後、紆余曲折(うよきょくせつ)を経たのちに登場したのが正親町天皇。「織田信長と丁々発止とやりあった」との見方があります。果たしてその実情は。

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