坂を下りると道は左に直角に曲がる。その先は渋谷川の支流が作った小さな谷だったからだ。明治13年(1880年)ごろの地形図を見るとその谷地で水田が営まれていたことが分かる。谷を避けるためにいったん左折して渋谷川沿いに出たのだろう。

明治13年(1880年)の地図。霞ヶ丘アパートのあたりが谷地で「田」だったのが分かる。「明治前期測量 2万分の1 フランス式彩色地図」(日本地図センター発行)より
明治13年(1880年)の地図。霞ヶ丘アパートのあたりが谷地で「田」だったのが分かる。「明治前期測量 2万分の1 フランス式彩色地図」(日本地図センター発行)より
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 もっと昔はどうだったか。18世紀の「青山渋谷絵図」を見ると、勢揃坂を下った後、寂光寺へ向けて道が真っすぐ続いているのである。中世の軍道が直接国立競技場につながっていたと思うと楽しい。

江戸時代中期の「青山渋谷絵図」を見ると、勢揃坂を下った後も道が寂光寺へ向かって真っすぐ続いている。鎌倉街道だったか
江戸時代中期の「青山渋谷絵図」を見ると、勢揃坂を下った後も道が寂光寺へ向かって真っすぐ続いている。鎌倉街道だったか
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 霞ヶ丘アパート跡地は将来、「新」明治公園となるので、勢揃坂を真っすぐ下りて競技場へ入れるようになると思うが、残念ながら公園の整備工事が始まるのは、東京オリンピック・パラリンピックが終わってからのこと。それまでは日本オリンピック委員会が利用するそうだ。なので、当面はいったん左折して渋谷川跡である外苑西通りに出て、外苑門から競技場に入場することになろう。

 さて、勢揃坂を下りた鎌倉街道は、大久保へ抜け、雑司が谷方面から豊島区役所西の道へつながっていた。その間、つまり新宿・四谷のあたりのどこを抜けたかはよく分かっていない。

 しかも、渋谷川を挟んだ西の鳩森八幡神社と、東の寂光寺の2つに古街道伝承があるからややこしい。

 両方の伝承を生かそうとすると、寂光寺前から西へ曲がって渋谷川を渡り、鳩森八幡神社前から北上したといえるが、当時の街道はできるだけ渡河を避けるのが普通。なので、そのまま渋谷川東の台地上(霞ヶ丘)を北上したかもしれない。想像の余地があって面白いのである。

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