練兵場時代と神宮外苑時代の地図を見比べると面白い。

明治後期
明治後期
明治後期の地図。今の神宮外苑一帯は青山練兵場だった。「東京時層地図 for iPad」(日本地図センター)より
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大正時代
大正時代
大正時代の地図。青山練兵場は明治神宮外苑となっている。渋谷川をはさんだ西側の台地の上、今の東京体育館あたりは「徳川邸」と書かれている。「東京時層地図 for iPad」(日本地図センター)より
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昭和戦前期
昭和戦前期
昭和戦前期の地図。大正13年(1924年)完成の明治神宮外苑競技場が確認できる。明治天皇の生涯の事績を描いた絵画を展示する聖徳記念絵画館(大正15年竣工)も描かれている。神宮野球場との間には相撲場がある。「東京時層地図 for iPad」(日本地図センター)より
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 そして、昭和戦前期の地図を見ると分かるように、神宮外苑の一角に明治神宮外苑競技場が造られた。新しい国立競技場の前身のそのまた前身にあたる。

 完成したのは神宮外苑のオープンから数年後の大正13年(1924年)。当時の官報によると「収容人員 スタンド観覧席約15,000人、芝生観覧席約50,000人」とある。そのまま信じれば6万5000人収容の大競技場だ(実際はそれほど大きくはなかったようだ)。

 この神宮外苑競技場のチェックポイントは、その地形にある。競技場の場所はちょうど渋谷川がつくった低地とその東側の台地のキワにあたるのだ。その台地を削ってフィールドを作り、斜面を削って整えて「約50,000人」の芝生観覧席にしたのである。

 大正時代の、まだ競技場が完成する前の地図を見ると、観客席に沿うように不自然に曲がった等高線が描かれていることが分かる。

 もともと台地のキワを削り整えて造られていたのである。

 昭和初期の地図を見ても、バックスタンドにある芝生観覧席は削った斜面を利用していることが読み取れる。反対側のメインスタンド側には立派な貴賓席などを備えたメインスタンドが建っていた。