宝暦年間の地図を引っ張り出したのは、比較的正確に道や川が描かれているからだ。
江戸時代末期の地図「江戸切り絵図」も見てみる。こちらは正確さには欠けるが観光地図的な派手さがあって見やすい。
宝暦年間の地図と比べると寂光寺の南西に立法寺というお寺が増えていることが分かる。人骨が出土したのはこの2つの寺のどちらか、あるいは両方だろう。
立法寺は赤坂で創建し、1732年に国立競技場の所在地である千駄ヶ谷村へ移転してきた。そして、大正8年(1919年)に明治神宮外苑造営にともなって杉並区へ移転している。
立法寺の北にある寂光寺は、1629年にこの地に移転してきた。その後、日蓮宗から天台宗に改宗し、境妙寺と名を変え、大正4年(1915年)、こちらも明治神宮外苑の造営にともなって中野区に移転している。
どちらも、移転は大正時代。
神明社は千駄ヶ谷大神宮とも呼ばれていたが、明治41年(1908年)に、境妙寺や立法寺より一足早く移転している。遷座先はすぐそばにある鳩森八幡神社だ。
御焔硝蔵から青山練兵場へ、そして神宮外苑に
幕末の絵図で注目したいのは寂光寺の北にある「御焔硝(えんしょう)蔵」つまり、火薬庫である。その南東には「御鉄炮場」もある。
そういう土地だったせいか、明治中期になると広大な敷地が買い上げられて「青山練兵場」になり、周辺にも軍の施設が置かれることになった。今の明治神宮外苑(スポーツ施設を含む)の元となった土地は、明治時代の練兵場の広大な敷地だったのだ。なるほどそれなら、広い敷地をまとめて確保できたのも分かる。
その後、日露戦争勝利記念で大博覧会を開催する予定だったものの行われず、大正3年(1914年)に明治天皇を祀る明治神宮の外苑として整備されることが決定した。その結果、地域内にあった寂光寺や立法寺が移転することになり、そのときの置き土産が今回発掘されたのだ。
大正9年(1920年)に刊行された『明治神宮案内』によると、神宮外苑となる土地は「(江戸時代には)お先手組与力衆の小家ばかりが並んでいた所ですが、それが維新後になると、すっかり様子が変わって、明治6、7年頃、練兵場としてお買い上げになる時分には、ずいぶん荒廃した場所になっていたようです」とある。狐もいたそうだ。
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