大型開発プロジェクトで変貌しつつある東京。その注目エリアをピックアップし、地域の歴史や地形と絡ませながら紹介していく連載です。現地に残る史跡、旧跡のルポも交えて構成。歴史好きの人のための歴史散歩企画としてもお楽しみください。変貌する「ネオ東京」の“来し方行く末”を鳥瞰(ちょうかん)しつつ、その地の歴史的、地勢的特性を浮き彫りにします。
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江戸時代の神宮外苑の墓から何が出た?
今回は国立競技場の第2回。前回は国立競技場や明治神宮野球場、秩父宮ラグビー場のような巨大な施設をなぜ明治神宮外苑に造れたのかという疑問で終わっていた。今回はその謎に迫っていくことにする。
国立競技場の建設現場から江戸時代の187体の人骨が発掘されていた、というニュースが2019年11月に報じられました。人骨ということで、物騒なニュアンスで受け止めた人も多そうですが、そんなことはない。
江戸時代はよく寺院が様々な理由で移転させられたが、そのとき墓石は一緒に運んでも、土の下はそのままだったりした。かつて寺があった場所で人骨が出るのは当たり前なのである。
では人骨が出た場所にどんな寺院があったのか。
まず、宝暦年間(1751~1764年)の江戸図からこのあたりを見てみたい。
白い線で四角く囲った場所が、おおむね国立競技場の敷地と思っていい。ちょうど真ん中に赤く塗られた土地がある。片方は寂光寺、もう片方は分かりづらいが「神明」とある。天照大神を祀(まつ)る神明社があったのだ。
そしてその西側を南北に渋谷川が流れている。これらの寺社は渋谷川のそばに立地していたのだ。
渋谷川の西側に描かれている寺社はすべて今も存在している。その中で、千駄ヶ谷八幡と書かれている神社は富士塚で有名な鳩森(はとのもり)八幡神社だ。
宝暦年間の江戸図より千駄ヶ谷村周辺。白線で四角く囲ったのが国立競技場の敷地。赤く塗られた場所は寺社を示している。枠内の赤い場所の向かって左側が「寂光寺」、右側が「神明」。渋谷川の西側の台地の上に、鳩森八幡神社、紀州藩の抱(かかえ)屋敷があった
宝暦年間の地図を引っ張り出したのは、比較的正確に道や川が描かれているからだ。
江戸時代末期の地図「江戸切り絵図」も見てみる。こちらは正確さには欠けるが観光地図的な派手さがあって見やすい。
嘉永年間(1848~1854年)の江戸切り絵図。渋谷川(図の真ん中の濃紺の筋)の脇に3つの寺院と1つの神社がある
宝暦年間の地図と比べると寂光寺の南西に立法寺というお寺が増えていることが分かる。人骨が出土したのはこの2つの寺のどちらか、あるいは両方だろう。
立法寺は赤坂で創建し、1732年に国立競技場の所在地である千駄ヶ谷村へ移転してきた。そして、大正8年(1919年)に明治神宮外苑造営にともなって杉並区へ移転している。
立法寺の北にある寂光寺は、1629年にこの地に移転してきた。その後、日蓮宗から天台宗に改宗し、境妙寺と名を変え、大正4年(1915年)、こちらも明治神宮外苑の造営にともなって中野区に移転している。
どちらも、移転は大正時代。
神明社は千駄ヶ谷大神宮とも呼ばれていたが、明治41年(1908年)に、境妙寺や立法寺より一足早く移転している。遷座先はすぐそばにある鳩森八幡神社だ。
千駄ヶ谷大神宮は現在、鳩森八幡神社の境内社として残っている
御焔硝蔵から青山練兵場へ、そして神宮外苑に
幕末の絵図で注目したいのは寂光寺の北にある「御焔硝(えんしょう)蔵」つまり、火薬庫である。その南東には「御鉄炮場」もある。
そういう土地だったせいか、明治中期になると広大な敷地が買い上げられて「青山練兵場」になり、周辺にも軍の施設が置かれることになった。今の明治神宮外苑(スポーツ施設を含む)の元となった土地は、明治時代の練兵場の広大な敷地だったのだ。なるほどそれなら、広い敷地をまとめて確保できたのも分かる。
その後、日露戦争勝利記念で大博覧会を開催する予定だったものの行われず、大正3年(1914年)に明治天皇を祀る明治神宮の外苑として整備されることが決定した。その結果、地域内にあった寂光寺や立法寺が移転することになり、そのときの置き土産が今回発掘されたのだ。
大正9年(1920年)に刊行された『明治神宮案内』によると、神宮外苑となる土地は「(江戸時代には)お先手組与力衆の小家ばかりが並んでいた所ですが、それが維新後になると、すっかり様子が変わって、明治6、7年頃、練兵場としてお買い上げになる時分には、ずいぶん荒廃した場所になっていたようです」とある。狐もいたそうだ。
練兵場時代と神宮外苑時代の地図を見比べると面白い。
明治後期
明治後期の地図。今の神宮外苑一帯は青山練兵場だった。「東京時層地図 for iPad」(日本地図センター)より
大正時代
大正時代の地図。青山練兵場は明治神宮外苑となっている。渋谷川をはさんだ西側の台地の上、今の東京体育館あたりは「徳川邸」と書かれている。「東京時層地図 for iPad」(日本地図センター)より
昭和戦前期
昭和戦前期の地図。大正13年(1924年)完成の明治神宮外苑競技場が確認できる。明治天皇の生涯の事績を描いた絵画を展示する聖徳記念絵画館(大正15年竣工)も描かれている。神宮野球場との間には相撲場がある。「東京時層地図 for iPad」(日本地図センター)より
そして、昭和戦前期の地図を見ると分かるように、神宮外苑の一角に明治神宮外苑競技場が造られた。新しい国立競技場の前身のそのまた前身にあたる。
完成したのは神宮外苑のオープンから数年後の大正13年(1924年)。当時の官報によると「収容人員 スタンド観覧席約15,000人、芝生観覧席約50,000人」とある。そのまま信じれば6万5000人収容の大競技場だ(実際はそれほど大きくはなかったようだ)。
この神宮外苑競技場のチェックポイントは、その地形にある。競技場の場所はちょうど渋谷川がつくった低地とその東側の台地のキワにあたるのだ。その台地を削ってフィールドを作り、斜面を削って整えて「約50,000人」の芝生観覧席にしたのである。
大正時代の、まだ競技場が完成する前の地図を見ると、観客席に沿うように不自然に曲がった等高線が描かれていることが分かる。
もともと台地のキワを削り整えて造られていたのである。
昭和初期の地図を見ても、バックスタンドにある芝生観覧席は削った斜面を利用していることが読み取れる。反対側のメインスタンド側には立派な貴賓席などを備えたメインスタンドが建っていた。
明治神宮外苑競技場の全景。左手がメインスタンド。『近代的都市の重要任務たる運動競技場の建造』(昭和2年)より
貴賓席などが設けられた明治神宮外苑競技場のメインスタンド。『近代的都市の重要任務たる運動競技場の建造』(昭和2年)より
これが明治神宮外苑に最初に造られた競技場だ。そして、後に太平洋戦争終盤の昭和18年(1943年)に出陣学徒壮行会の会場として使われたところでもある。
出陣学徒壮行会の会場となった明治神宮外苑競技場。写真の奥後方に見えるのが、傾斜地を利用して造ったバックスタンドだ(写真:近現代PL/アフロ)
そして、旧国立競技場が取り壊されて更地になったとき、その現場をのぞいてみた。確かに微妙な斜面が今でも残っていた。土地の記憶である。
更地になった旧国立競技場跡地を南東から望む。右手にわずかながら残った斜面が顔を出している。左手に渋谷川西側の台地上に建つ東京体育館が見える
戦後、1964年のオリンピック招致に向けて動き始めた日本は、57年、明治神宮外苑競技場を取り壊して新競技場の建設を始める。58年に「第3回アジア競技大会」メイン会場として完成したのが国立霞ヶ丘陸上競技場、いわゆる「国立競技場」だ。「国立霞ヶ丘」とついているように、このあたりは霞ヶ丘と呼ばれている。住所は新宿区霞ヶ丘町(以前は霞岳町と表記)だ。
国土地理院が公開している航空写真に明治神宮外苑競技場時代(47年)と、国立霞ヶ丘陸上競技場時代(63年)のものがあったので並べてみた。
地形を生かして観客席を造った明治神宮外苑競技場の様子とメインスタンドの背後に渋谷川が流れていることが分かる。明治神宮外苑競技場と神宮野球場の間に相撲場(円形の部分)があるのも新鮮だ。
両競技場の下(南)側に見える道は前回の連載で触れた坂道だ。現在の国立競技場はこの道の部分も敷地内におさめてしまったので、その道はなくなったが、歩いてみれば土地が斜面であることが今でも分かる。競技場の東側(写真右手)にある青山門から右回りに競技場を歩いていくと、南側にある外苑門に着く。そこは人工地盤で造られた空中デッキの上なのだ。平らな面を歩いていたはずなのに、地表より高いところにたどり着く。競技場が建てられた土地が、斜面であることの証拠だ。
左が1947年、右が1963年の航空写真。国土地理院より。詳細は
こちら
我々になじみのある旧国立競技場時代を迎える(写真右)と、渋谷川は暗きょとなって、その地表部分は緑道公園(明治公園の一部)となる。地下に潜った渋谷川はその後、下水道にされてしまう。渋谷川の流路が新宿区と渋谷区の境界線となっていたので、区界をたどれば、かつてどこを渋谷川が流れていたかが分かる。そしてこの川がかつて、渋谷の東急東横店東館の地下を流れていたのだ。(関連記事)
2014年、旧国立競技場も役目を終え、20年の東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場として新たに国立競技場が建てられた。
シンプルなデザインの旧国立競技場でアクセントとなっていたメインスタンドの2つのモザイク壁画「野見宿禰像」と「勝利の女神像」は、新たな国立競技場になっても残った。今は、青山門の両脇に飾られている。そして青山門の正面に、1964年のオリンピックで使われた炬火台(いわゆる聖火台)が設置されることになっている。
旧国立競技場時代のメインスタンドにアクセントをつけていた「野見宿禰像」と「勝利の女神像」のモザイク壁画
新しい国立競技場の東側にある青山門に移設された「野見宿禰像」と「勝利の女神像」の壁画。手前の白く見える場所には1964年の東京オリンピックのときに使われた炬火台(いわゆる聖火台)が置かれる予定だ
旧国立競技場周辺に飾られていた彫像類も競技場の各所に設置される予定だ。槍投げ像、円盤投げ像、御者像は外苑門前に、健康美、青年像、出陣学徒壮行の地記念碑などは千駄ヶ谷門前など各所に分散して置かれる予定だ。
国立競技場、外苑門前の広場。手前とその奥の四角いコンクリートの台上に
前回紹介した「御者像」「円盤投げ像」などが設置される予定となっている
そして、「SAYONARA国立競技場」で終わった前競技場は、19年12月21日に開催されたオープニングイベント「HELLO,OUR STADIUM」(「こんにちは、わたしたちの競技場」というニュアンスか)をもって、新たな競技場として生まれ変わり、その歴史をスタートさせたのだ。
競技場内に表示された「HELLO,OUR STADIUM」。「こんにちは、わたしたちの競技場」という感じかと思う
新しい競技場は旧国立競技場に比べると敷地面積が広くなり(約1.5倍)、競技場に隣接していた明治公園や日本青年館を飲み込んだ。暗きょ化・下水道化した渋谷川は、かつての姿をイメージしたカスケード(小さな滝)や約140メートルの人工の「せせらぎ」として、かすかな思い出として残ることになった(ただし、周辺を散策できるのは、オリンピック・パラリンピック後になるらしい)。
一方、旧国立競技場に併設されていた秩父宮記念スポーツ博物館は、新しい国立競技場には造られなかった。ただ、博物館に展示されていた秩父宮雍仁(やすひと)親王にかかわるスポーツ関連資料や文物の一部は外苑門横のギャラリースペースで展示されることになった。
そして都営霞ヶ丘アパートは新たな「明治公園」となり、バス停や交差点名の「霞ヶ丘団地」にのみ名を残し、1960年代からの歴史を終えた。
2020年の東京オリンピックが終われば、せせらぎや国立競技場5階の「空の杜(もり)」も開放されるだろう。新しい国立競技場がその真の姿を見せてくれるのは、オリンピック後になりそうである。
そして、21年からは、大正15年(1926年)に開場した明治神宮野球場、昭和22年(1947年)に完成した秩父宮ラグビー場を巻き込んだ再開発が始まる。都心の一等地にありながら昭和の香りを残していた神宮外苑の残りのエリアもその姿を変えることになる。 (次回に続く)
夜の国立競技場を地上から。柱に支えられているのが、外苑門前の人工地盤(空中デッキ)だ
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