そこで青山通りに出たところで左折し、素直に渋谷駅へ戻ることにする。

 青山通りはもとの江戸時代の矢倉沢往還(大山街道)。渋谷を過ぎると「玉川通り」と名を変え、二子玉川に向かう。当時の大山街道もほぼ同じルートを進み、二子の渡しで多摩川を越えていた。ただし、江戸時代の文化文政時代(1804~1830年)ころまでは三軒茶屋から、今の世田谷通り方面に進み、世田谷から用賀経由で二子の渡しへ通じていた。歴史的な道だ。

 青山通りを渋谷へ向かい、宮益坂上の五差路に出る。今の渋谷駅の南に出る道は高度成長期に作られた新しいルートで、もともとは右手の宮益坂からハチ公のある渋谷駅の北側に抜けていた。

 宮益坂を下って渋谷郵便局の前を過ぎると、右手に宮益御嶽神社が見えてくる。コンクリートの階段を上った先に社殿があるモダンな神社だ。いわゆる織豊時代の1570年に創建されたという。

宮益御嶽神社はビルに隣接しており、鳥居奥の階段を上った上に社殿がある
宮益御嶽神社はビルに隣接しており、鳥居奥の階段を上った上に社殿がある

 何をかくそう、この宮益御嶽神社が「宮益」の地名語源となった神社だ。江戸期に「お宮のご利益」にあやかって町の名前が付けられたという。その頃は、金王八幡宮の前が栄えていて、宮益の地は「新町」と呼ばれていたようだ。対抗意識が働いたのかもしれない。

 宮益御嶽神社の特徴は社殿の前のこま犬。犬ではなくニホンオオカミなのだ。奥多摩にある武蔵御嶽神社もニホンオオカミ(大口真神)をけんぞくとしているので、それを勧請(かんじょう)したものだろう。

社殿前にはニホンオオカミのブロンズ像が鎮座する。
社殿前にはニホンオオカミのブロンズ像が鎮座する。

 宮益坂はかつて富士見坂とも呼ばれていた。今はビル群が邪魔をして富士山を望むのは不可能だ。2019年11月にオープンする渋谷スクランブルスクエア第Ⅰ期(東棟)の屋上庭園に上れば見えるんじゃないかと思う。

 宮益坂を下りると渋谷駅。JR線の高架をくぐると渋谷のスクランブル交差点。矢倉沢往還はここから渋谷109の左手を上っていく道玄坂に続いていた。

 こんな感じで、渋谷駅から、昭和→中世→江戸と3つの時代を三角形に散歩してみた。

 渋谷が近年発達した若者の街と言われて久しいが、その気になればかなり古い歴史が眠っているのである。興味を持った方はぜひ、渋谷の坂を上って歴史を味わってもらえればと思う。

 これでこの連載の渋谷編は終了。次回のシリーズをお楽しみに。

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