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 大型開発プロジェクトで変貌しつつある東京。その注目エリアをピックアップし、地域の歴史や地形と絡ませながら紹介していく連載です。現地に残る史跡、旧跡のルポも交えて構成。歴史好きの人のための歴史散歩企画としてもお楽しみください。変貌する「ネオ東京」の“来し方行く末”を鳥瞰(ちょうかん)しつつ、その地の歴史的、地勢的特性を浮き彫りにします。

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 今回は高輪ゲートウェイ駅シリーズの最終回。

 高輪ゲートウェイ駅を訪れた人の何人かが、「行ってみたけど周りに何もない」、と言う。確かに、あそこは品川開発プロジェクトの1つで、駅だけが先に開業(以前は暫定開業といっていたんだけど、いつのまにか「暫定」がとれた?)したのだから、当たり前で、形になるのは2024年だ。

 でも、ちょっと足を延ばせば「何もない」どころか史跡の宝庫。駅の近くだけを見て終わり、ではあまりにもったいないので、そこからの歴史散歩を楽しんでほしいと思うのである。

※新型コロナウイルス感染対策による外出自粛要請が出ている間は、記事で紹介した場所への移動・散歩はお控えください

高輪の語源は「高縄手」だった

今回紹介するエリア。茶は中世以前、赤は江戸時代、ピンクは幕末、青は近代のスポットを表している。高台の二本榎通り(古街道)と、低地の第一京浜(江戸時代の東海道)が並行して走っているのがポイント。「スーパー地形」(iOS版)より

 そもそも、高輪って難読地名だと思うのだ。

 比較的有名な地名であるから気づいてない人もいるだろうけれど、初見で読むのは難しい。「たかわ」や「こうりん」と読んでしまっても無理はない。

 なぜ「たかなわ」が「高輪」なのか、昔から「高輪」と書いていたのか。

 江戸時代以前からの地名で、当初は「高縄」と書いていたのだ。それなら誰でも「たかなわ」と読めるはず。江戸時代の古地図や文献でも「高縄」と「高輪」の2種類の表記がよく見られる。

 なぜ「高縄」か。定説は「高縄手」を略したもの。高縄手とは高台にある長くまっすぐな道(縄手道)を指す。ここで地図に目を向けるとよく分かる。昔の海岸線(鉄道や第一京浜がほぼそれに沿っている)と並行するように幅の狭い台地が南北に延びており、高台の尾根に沿って1本の道がすーっと通っているのだ。これこそが「高台」の「縄手道」だ。

 江戸時代(享保の頃)の地図を見ると、道の数が少ないのでより分かりやすい。

享保年間(1716~36年)の頃の高輪の絵図(品川芝筋白金麻布 )。東海道と並行して走る道が縄手道。国立国会図書館デジタルコレクションより

 駅や高輪大木戸のある海沿いの低地ではなく、内陸にある台地が高輪なのだ。

 その縄手道、今は二本榎(にほんえのき)通りと呼ばれているが、往古は「奥州道」で、中世には鎌倉街道の1つでもあった。東海道が整備される前はこの縄手道が主要な街道だったのだ。奥州道は奥州へ向かう道で平安時代は古代東海道として使われていたと考えられている。

 古街道は高台の尾根を好むことが知られている。高台は日の当たる時間が長く明るいし見通しもよい。見通しがよければ、世の中が乱れているときでも敵に襲われづらいし、低地は水害などの自然災害に弱い。中世の道は軍道として使われたので、尾根道であることは重要だったのだ。そしてこのあたり、崖下は海が近すぎた。

 しっかり石垣で護岸をして道路をメンテナンスできる江戸時代だからこそ海沿いの道が東海道として成り立ったのだろう。

江戸時代の高輪を描いた錦絵(東都名所 高輪全図。絵師:歌川広重)。江戸時代後期、高輪から品川方面を見た図。高輪大木戸以南は海沿いぎりぎりを通っていたことが分かる。右端に泉岳寺がちらりと見える

 古代から中世は高台の奥州道、江戸時代には海沿いの東海道で、鉄道の時代になるとかつては海だった場所に山手線や東海道新幹線が走るようになった。そして現代、高輪ゲートウェイ駅ができた、という視点で歴史を見るのも面白い。

 だから高輪ゲートウェイ駅から歴史散歩するなら、内陸側だ。