せっかくなので当時の品川駅についてもっと詳しく見てみたい。国立公文書館デジタルアーカイブに「公文附属の図・五号 新橋横浜間鉄道之図」という地図がある。これを見ると、横浜側から来ると、品川駅までがギリギリの陸地でその先は田町駅あたりまで高輪海岸の海の上を通るのが見てとれる。

「新橋横浜間鉄道之図」(国立公文書館デジタルアーカイブ)、品川駅周辺。右が北。海上に鉄道が敷かれていることが分かる。品川駅より南は陸地を走る
「新橋横浜間鉄道之図」(国立公文書館デジタルアーカイブ)、品川駅周辺。右が北。海上に鉄道が敷かれていることが分かる。品川駅より南は陸地を走る
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 その後、鉄道と海の間は徐々に埋め立てられ(前々回「高輪ゲートウェイ駅の過去を知る『高輪橋架道橋』の数奇な運命」参照)、明治時代後期には品川駅も北に移動して今と同じ場所になる。そして大崎からぐるっとカーブしてきた山手線(最初は赤羽~品川間だった)も品川駅にやってきた。ここから今の品川駅が始まるわけである。

 東海道の玄関口が、江戸時代の品川宿から、鉄道の品川駅へと移行し始めたのだ。

京浜急行の「品川」乗り入れ

 品川駅といえばもう一つ忘れてはならないのが京浜急行電鉄。

 38年ほど前、上京したとき「京浜東北線」(当時は国鉄)と「京浜急行」(こっちは私鉄)の区別がつかなくて頭の中が「???」となったのを思い出す。名前が似すぎてません?

 ともあれ、京浜急行の「京」は東京、「浜」は横浜なのであるが、創業時はどちらにも通じてなかった。明治32年(1899年)、六郷橋と川崎大師を結ぶ、参拝客向けの「大師電気鉄道」が最初だ。その後、京浜電気鉄道と改称し、明治38年(1905年)には神奈川~品川間が開業した。神奈川駅は今の横浜駅の少し北だけど、これでようやく「京」と「浜」がつながったのである。

 といっても、当初は八ツ山橋を越えることができず、品川駅は八ツ山橋の南側(今の北品川駅に近い)にあり、「品川八ツ山」駅といわれていた。地図によって駅名の表記が違っているのがなんとも面白いところ。

⼤正5年(1916年)の「東京市全図」(東京便覧社)に描かれた「京浜電⾞線図」。終点が「品川八ツ山」とされている
⼤正5年(1916年)の「東京市全図」(東京便覧社)に描かれた「京浜電⾞線図」。終点が「品川八ツ山」とされている
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⼤正7年(1918年)の東京市街全図(和楽路屋)。左⼿(南側)から延びてきた京浜電気鉄道(⾚い線)の終点が「品川」となっている。省線(国鉄。今のJR)の品川駅は「しながわ」とひらがなだ。省線の上(⻄側)に描かれている⾚い線は東京市電
⼤正7年(1918年)の東京市街全図(和楽路屋)。左⼿(南側)から延びてきた京浜電気鉄道(⾚い線)の終点が「品川」となっている。省線(国鉄。今のJR)の品川駅は「しながわ」とひらがなだ。省線の上(⻄側)に描かれている⾚い線は東京市電
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