大型開発プロジェクトで変貌しつつある東京。その注目エリアをピックアップし、地域の歴史や地形と絡ませながら紹介していく連載です。現地に残る史跡、旧跡のルポも交えて構成。歴史好きの人のための歴史散歩企画としてもお楽しみください。変貌する「ネオ東京」の“来し方行く末”を鳥瞰(ちょうかん)しつつ、その地の歴史的、地勢的特性を浮き彫りにします。
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前回の「高輪ゲートウェイ駅の過去を知る『高輪橋架道橋』の数奇な運命」では、高輪ゲートウェイ駅のそばにある「高輪橋架道橋」を取り上げた。日本の鉄道が誕生したときからの歴史に関わってきた高輪橋架道橋が、最も新しい駅の至近距離に今も存在していたのだ。
高輪ゲートウェイ駅の暫定開業を皮切りに建設が進むグローバルゲートウェイ品川によって、高輪は大きく変わっていく。どうなっていくのだろう。
それにしても気になることが2つある。1つはこのプロジェクトが完成したとき、線路によって東西に分断されてきたこの地がどうなるかということ、そして前回の連載の冒頭に書いたように、やや違和感のある高輪ゲートウェイという駅名にJR東日本がこだわった理由だ。
そこで、復習もかねて明治28年(1895年)の東京全図を見てみよう。鉄道より東側の埋め立ては始まっていない。高輪ゲートウェイ駅があるのは明治時代の途中まで「海」だった場所なのだ。線路と陸との間には前回紹介した「車町河岸」のような水路がそこここに残っていたようだ。
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