そして戦後、昭和33年(1958年)の港区の地図を引っ張り出してみた。
品川駅の北を複雑に線路が通っているのが分かる。車両基地だ。位置関係から考えると、芝浦橋から西に延びている西芝浦二丁目と芝高浜町の境界(点線部分)が今の高輪橋架道橋の位置にあたるのだろう。ただ、この地図には道路も水路も描かれていない。境界線が描かれているだけだ。
よく見ると、海側のトンネル部分を出たところに道路が描かれていない。もし高輪橋架道橋の下が道路になっていたなら、これは不自然だ。一方、水路も途中で切れているが、これは水路はその先も続いているものの、省略されたと思えば、それほどおかしくはない。推測の域を出ないが、多分、このときは水路が残り、その後、道になったのではないか。
これらの古地図を見ると、高輪橋架道橋のガード下はもともと人や車が通るためのものではなかったことが分かる。
そして水路が道路になった
そもそもは日本初の鉄道が海の上に造った築堤の上に敷設されたことが発端だ。そのままだと陸地と線路との間にできた水路から沖合の海に船が出られない。そのため、船の通路として築堤が一部切られそこに橋が掛けられたんだろう。
その後、線路と陸地の間にあった海は埋め立てられていく。「車町河岸」があったところは比較的遅くまで残ったものの、昭和初期までには埋め立てられる。そして海へつながる水路だけが残った。
その水路をいよいよ埋め立てる際、既にできていた車両基地によって分断された地域の東西を結ぶ通路がなく不便だったので、埋め立てた場所を道路に転用したものではなかろうか。
そうならば、道路は水面の高さだった可能性がある。であれば、狭くて低いのも分かる。ちなみに「架道橋」とは、道路をまたぐ鉄道橋のこと。水路だったときは「高輪橋」だったが水路が道に変わったので「高輪橋架道橋」になったのだろう。
Powered by リゾーム?