埋め立て地に車両基地ができつつある時代だ。ただし、泉岳寺前から伊皿子を過ぎて札の辻に至る辺りは道路(旧東海道、第一京浜)の東側にまだ海の一部(海岸線)が運河状に残っていることが分かる。当時、泉岳寺前には河岸(車町河岸)があり、これが線路をくぐる水路で海とつながっていたのだ。その水路をまたいでいた鉄道橋がおそらく「高輪橋架道橋」の名前の元になる「高輪橋」だったのではないか。
ちなみに明治5年(1872年)に開業した日本初の鉄道は、海の中に幅6.4メートルほどの堤を築いて、その上に鉄道を敷設した。線路より内側に水路があったのはそのためだ。
余談だが、地図を見て気になるのが「極東競技会場」の文字。調べてみると、大正6年(1917年)に開催された「第3回極東選手権競技会」の会場のようだ。日本と中国(当時は中華民国)とフィリピンによる大会で、芝の埋め立て地が会場だったというから、この地図にある場所で間違いないだろう。
埋め立てによって消えていく河岸や水路
この河岸や水路はいつまで残っていたか。
昭和5年(1930年)の東京市街地図では線路と旧東海道の間に線で河岸の痕跡らしきものがかろうじて描かれている。これが河岸を示すものだとしても、このころに河岸はまだあったのか、それとも埋め立てられた直後なのか、それは分からない。
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