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遣隋使から遣唐使へ

 第1回の遣隋使(600)は、推古天皇の時代に派遣されています。彼らが奏上した倭の政治体制や習俗を、髙祖文帝から「はなはだ義理なし(さっぱり道理が通らない)(『隋書』)」との批判を受けました。その後、第2回遣隋使(607)の小野妹子が煬帝に上呈した「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや、云々」の有名な国書も、再び不興を買いました。しかし、随と高句麗との関係が不穏であったためか、辺境の島国のゆえか、朝貢はしても、他の東アジア諸国のような天子と臣下という「冊封関係」になることはありませんでした。このことは、それ以後の東アジアで日本が独立国家であり続けた理由を考える上で重要です。

 そして、遣隋使がもたらした最新の情報に基づき、十七条憲法、冠位十二階制(註)、律令制、宮都の整備、仏教振興など、当時の近代国家としての法制度と社会体制を急速に整えていきました。遣隋使は第5回まで続きましたが、高句麗との戦いに敗れた隋は国内が乱れて618年に滅亡し、大帝国・唐が建国されました。

 大陸の覇権を握った唐との外交関係を深めようと、630年、舒明天皇の時に第2代皇帝・太宗へ宛てて第1回遣唐使を送りました。そして遣隋使以来、朝鮮半島の西岸に沿って進む新羅航路を取っていましたが、白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫してからは、朝鮮半島を統一した新羅との関係がぎくしゃくし始めたことによって、奄美や琉球を島伝いに行く南島航路(702~752)、次いで対馬海流に逆らって黄海を横断する大洋航路(773~838)を取ることを余儀なくされました。

遣唐使のルート

 しかし、沿岸航行を前提とした構造の遣唐使船では、外洋の速い潮流を乗り切ることが難しく、たびたび難破する命がけの航海になりました。奈良県の史跡平城京に置いてある原寸大で復元された遣唐使船の模型を見れば、とても外洋を航海できるとは思えない小さな船だったことがわかります。こんな危険を冒してでも、唐の文明を持ち帰ろうとした当時の日本人の勇気と切実さに心を打たれます。こうした遣隋使や遣唐使とともに、天正遣欧少年使節(1582~1590)や支倉常長の慶長遣欧使節団(1613~1620)、そして明治の岩倉使節団(1871~1873)のように、島国日本を大きく前進させようとした先人たちの命がけの心意気を、現代の私たちは忘れてはならないと思います。

復元遣唐使船
(註):冠位十二階制 古墳時代以来の氏姓制度に基づく大王―大臣―大連などの序列ではなく、儒教倫理に基づいた徳―仁―義―礼―智―信にそれぞれ大小を付けた十二段の序列に応じた冠の色を定めたもの。

白鳳文化と律令国家

 白鳳文化とは、飛鳥の浄御原宮(きよみがはらのみや)から遷都したわが国最初の唐風都城・藤原京(694~710、現在の橿原市)に花開いた文化です。大化の改新のあと、持統、文武、元明の三代の天皇が住んだ壮麗な都は、律令国家としての体裁を内外に誇示するためのものでした。天武・持統朝(673~697)から平城京遷都(710)までのおよそ40年間は、飛鳥時代とも天平時代とも違う、特有の白鳳文化が生まれました。

 「白鳳」は、「白雉(650~654)」から「朱鳥(686~695)」までの期間の「美称」であって公式な元号ではないために、「白鳳時代」という美しい時代名称が現代では使われなくなっているのは少し残念に思います。