大仏造営

 東大寺大仏は、像高だけで約15メートル、基壇の幅は現在のものでも約70メートルと巨大です。まず山の傾斜地を削って伽藍の敷地を造成し、芯柱を建てて土を盛り上げて大仏の原型を造り、その後に下から8段階に分けて外型を造って、段階ごとに溶けた銅を鋳込み、また土を盛り上げて外型を造って鋳込む作業を繰り返しました。彫刻というより、土木事業といったほうが相応しく、最終的には大仏のすべてを覆う30メートル近い土の山ができたことでしょう。おそらくこの作業には、巨大古墳を造営した土木技術者たちが動員されていたと思われます。そして頭部の鋳込みが終わったら外側の土を除去し、また背中に穴をあけて体内の土も除去して2年がかりの鋳造作業は終わりました。

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大仏造営の順序 芯木―盛土―原型制作―外型―鋳込み―仕上げ

 創建当初の東大寺大仏の姿は、堂々とした体躯の唐の様式を採用し、薬師寺金堂の薬師如来や興福寺仏頭(旧・山田寺仏頭)のようなお顔をしていたことでしょう。仏師は、東大寺造仏所長官の立場であった国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)が有名です。創建当初の法華堂に安置された不空羂索観音や執金剛神、四天王(現・戒壇堂)などが、彼の作風を伝えていると考えられています。一方で、興福寺の脱活乾漆像(八部衆、十大弟子)の作者は仏師将軍万福の名が知られ、現在の法華堂に安置されている脱活乾漆造の脇侍や四天王などのように造形の特徴は柔和です。

創建当初の法華堂諸尊の想定CG画像(作成/山田修)
創建当初の法華堂諸尊の想定CG画像(作成/山田修)

 さて、土を除去した後の大仏は鋳込みの際のバリを除去し、全体を鑢(やすり)や鏨(たがね)で成形した段階で、752年に開眼法要が挙行されました。国内外から参列した一万数千名の僧侶の名前が『正倉院文書』に残されており、いかに盛大であったかが想像できます。未完成の状態で開眼法要を挙行した理由は、仏教公伝から200年目に合わせたとする『日本書紀』記載の説が有力です。

 金銅大仏造立と東大寺伽藍の創建は、当時の日本の国力を度外視した大事業でした。そもそも平城京を造営するために、おそらく大和国周辺のヒノキの大半は伐り尽くされたことでしょう。また、銅の精錬や鋳込みにも莫大な燃料が必要でしたから、周辺は見渡す限りはげ山になった上、海外との交流が増えたために新たな疫病も蔓延し、また飢饉も続発するなど、環境破壊と社会不安が発生したのです。そして、大量の銅の精錬による鉱毒とともに、水銀蒸着法という金鍍金での仕上げによる水銀中毒はかなり深刻なものであったと想像され、平城京が短命であった理由の一つともいわれています。

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