政治的には、天武・持統両天皇の強い指導力を元に、班田収授法(土地制度と租税法)や律令体制(唐風の官僚制度と法体系)が整備されました。また美術工芸では、法隆寺金堂四天王像や四十八体仏(現・東京国立博物館法隆寺宝物館所蔵)のような六朝風のものから、興福寺仏頭(旧・山田寺仏頭)や薬師寺本尊、蟹満寺本尊のような天平時代の魁のような仏像まで、二つの様式が混在して造られました。

 天武天皇(大海人皇子)が皇后・鵜野讃良の病気平癒のために発願した薬師寺は、680年に藤原京に造営されました。718年に同寺は平城京に移転しましたが、藤原京の方は本薬師寺と呼ばれ、平安時代中頃まで存在しました。この時代の大寺院は、いまだ国家鎮護のためではなく、天皇個人が親族などの病気平癒や長寿を祈願するために建立されたもので、多くは薬師如来坐像が祀られました。

薬師寺薬師如来
薬師寺薬師如来
興福寺仏頭
興福寺仏頭

聖武天皇の東大寺造営

 前回お話ししたように、現在の河内平野は大阪湾に繋がる「河内湖」と呼ばれた大きな入江になっていて、その沿岸は多くの渡来人が集落を形成していた先進地域でした。彼らは、それぞれの出自に従って様々な仏像を信仰していました。とくに高句麗や新羅系のひとびとは、金銅の盧舎那仏や弥勒仏などを礼拝していたと考えられます。杏仁形の目と口許に古拙の微笑みをたたえた六朝様式ではなく、河北の雲崗や龍門の石仏のような大らかで堂々とした体躯の如来形が好まれたと考えられます。岡寺(龍蓋寺、奈良県明日香村)の像高約5メートルの巨大な塑造の如意輪観音坐像は、この時代の雰囲気をよく伝えているといっていいでしょう。

雲崗石窟
雲崗石窟
龍門石窟
龍門石窟
岡寺(龍蓋寺)塑造如意輪観音坐像(CG画像作製/山田修)
岡寺(龍蓋寺)塑造如意輪観音坐像(CG画像作製/山田修)

 聖武天皇は、インドのアショーカ王や北魏の孝文帝(5世紀)に倣った国家仏教による全国統治を理想としていました。あるとき天皇は河内に行幸し、渡来人たちの寺院である知識寺で、彼らが金銅の盧舎那仏を礼拝している姿を見て、「この国の要となる仏像は盧舎那仏しかない。そしてその仏を中心として、全国にその分身である仏を祀る国分寺を創建し、仏教に護持された国家を創ろう」と考えました。盧舎那仏とは、華厳経が説く究極の法身仏で、釈迦如来や薬師如来、阿弥陀如来、菩薩や天部のすべて包含する宇宙の如来です。

 聖武天皇は当初、自らの離宮であった紫香楽宮を大仏建立の地として、土木工事を始め原型像の芯柱も建てたといいます。しかし、土木事業に通じた行基と学僧・良弁(ろうべん、689~774)らの意見を入れて、平城京の東北に位置する若草山の傾斜地に建立することにしました。法相教学と華厳教学に秀でた良弁が、若草山の山麓にあった金鐘寺で修行に励んでいた頃に、聖武天皇の知遇を得たといわれています。現在の東大寺でも、法華堂(三月堂)や二月堂周辺を上院地区として重要な霊場と考えていることからも、金鐘寺が東大寺の前身寺院であったことがわかります。

アショーカ王
アショーカ王
華厳の宇宙観
華厳の宇宙観

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