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 今の大阪府東部は広大な河内平野になっていますが、かつては河内湖または河内潟と呼ばれた水郷地帯でした。琵琶湖や巨椋池(おぐらがいけ)から淀川水系が、大和からは大和川水系が流れ込んでおり、「河内」とはこの二つの大河に挟まれた地域という意味だと考えられます。そして穏やかな汽水湖は、瀬戸内海から難波の堀江に着いた船が停泊する良港を形成していましたので、河内湖沿岸には早くから渡来人たちが定住し、当時の先端技術が集積した古代のシリコンバレーだったといえるかもしれません。また彼らは、それぞれに故国の仏教を奉じ、寺院を建て仏像を礼拝していたと思われます。

 新来の半島系渡来人である「西漢人」が多く住んでいた河内国を「近つ飛鳥(ちかつあすか)・河内飛鳥」と呼び、今の奈良県にある飛鳥は早くに渡来した「東漢人」らが住んで「遠つ飛鳥(とおつあすか)・大和飛鳥」と呼ばれていました。ちなみに「あすか」の語源は、「あす+か」に分かれて「やすらかなばしょ」との説もあり、「飛鳥」「明日香」のほかに、「安宿」「浅香」などの地名が各地に残っています。

 『日本書紀』によると、わが国に仏教と仏像が公伝したのは、6世紀半ばに百済王から欽明天皇へ贈られた時とされます。隋の統一によって南北朝が終焉を迎え、次の唐が高句麗を吸収し、朝鮮半島を新羅が統一しようとしていました。そして新羅から圧迫を受けていた百済王は、ヤマト王権との同盟関係を強めるために仏教を紹介したのでしょう。しかし結果的には、百済の要請に応じて派遣した倭の救援軍が、唐・新羅連合軍に白村江(はくすきのえ)で大敗し、百済も滅亡しました。

わが国への仏教伝来

 飛鳥時代の仏教推進派の代表者は用明帝の皇子・厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我氏でした。古くから祭祀を司っていた中臣氏や、軍事物資を管掌した物部氏などは天皇が仏教儀礼を行うことに反対でしたので、仏教公伝の際には、幕末の尊皇攘夷のような崇仏・排仏という大きな対立抗争がありました(註)。崇仏・排仏騒動は、東アジアの情勢が密接に絡んで改革派の蘇我氏と守旧派の物部氏・中臣氏の勢力争いとして繰り広げられたといえます。

 さて645年の乙巳(いっし)の変で、蘇我氏本流が滅んだことにより、天皇を補弼(ほひつ)する勢力として急速に台頭してきたのが中臣氏から分かれた藤原氏でした。天皇の世継ぎを生む家系として、藤原氏は近代まで千数百年間連綿とその役目を果たしました。 藤原氏のことは次回の「白鳳から天平時代」でお話しいたしましょう。この時代の代表的寺院は、難波の四天王寺や斑鳩の法隆寺などがあり、仏像の特徴は左右対称性で、杏仁形の目と古拙の微笑みといわれた穏やかな表情が特徴的です。銅造のほかに、江南地方の特徴である木彫像も多く造られました。仏師は鞍作止利(くらつくりのとり)や山口大口費(やまのくちのおおくちのあたい)の名前が挙げられ、いずれも渡来系氏族の出身だと考えられます。

(註)崇仏・排仏論争:蘇我氏は、もともとは大阪と奈良の境にある二上山周辺の葛城や平群を地盤にしていた豪族のひとつと考えられ、伝承では武内宿禰(たけしのうちのすくね)を祖としています。後に河内の石川(現在の南河内郡)に本拠地を移して渡来人集団と接触し、先進文化を取り入れていった開明派で、物部氏や大伴氏のような古墳時代に遡る歴史ある守旧派の名門豪族とは相容れないことが多かったと思われます。蘇我氏は、稲目が欽明天皇の外戚となったことで急速に勢力を伸ばす一方、山科(京都府東部)にルーツを持つ名門・中臣氏は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祖先神とする神事・祭祀を司る家柄でした。

 おりから新羅からの圧迫を受けていた百済の聖明王は、倭を自らの同盟に引き入れるために、仏像や経論を贈りました。それを受けた蘇我氏は天皇に仏教を信仰させようとしますが、物部氏や中臣氏らは立場上強硬に反対しました。物部守屋らは蘇我氏の寺院を襲い、百済から贈られた仏像を難波の堀江に投げ捨てたといわれます。やがて崇仏派と排仏派の反目は丁未の乱(587年)に発展し、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼして絶対的な地位を確立し、その後入鹿や蝦夷が勢力を奮いました。

 しかし中大兄皇子や中臣鎌子(鎌足)らが乙巳の変というクーデターを起こし、入鹿、蝦夷を誅殺します。そして本宗家が滅んだ後の蘇我氏傍流は、曽我、須賀、石川、宗我、宗岳、宗岡などと表記を変えながらその後も永く生き延びます。中臣鎌足の死後、その家系は天智天皇(中大兄皇子)から賜った藤原氏を名乗るようになりました。