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3~6世紀の東アジア

 3~6世紀の長江(揚子江)流域は、「六朝(りくちょう)」という呉・東晋・宋・斉・梁・陳という六つの王朝が勃興し、豊かな水の恩恵がもたらした経済力によって高度な「六朝文化」が花開きました。そして老荘思想(道教)や仏教の観音信仰などの人文系文化や本草学(薬草学)が発達し、美術工芸では土や金属の他に、木材や漆、絹など生物材料も多用されたことが特徴とされます。絹を求めて西域人なども訪れ、非常にコスモポリタンな文化を生みだしていました。

南北朝期の東アジア

 稲作もこの地方で大きく発展し、わが国とも人的にも文物の面でもかなりの交渉があったことが「宋書」などの記載からわかります。天皇では、「倭の五王」に比定される応神、仁徳、履中、反正、雄略らから、仏教公伝に関わる欽明帝までの時代にあたります。

 5~6世紀は、北魏(北朝)と宋(南朝)などが覇を競った南北朝時代でした。特に北魏の成文帝や孝文帝らは仏教によって全インドを治めたアショーカ王を理想とする国家仏教による統治を行い、盧舎那仏や弥勒菩薩が熱心に信仰され、雲崗や龍門の石窟が造られました。

 一方ヤマト王権は、雄略帝のあと豪族が割拠して動揺しますが、欽明帝から用明帝の時代に蘇我氏が大王家の外戚となって安定しました。

 朝鮮半島の北方には大国・高句麗(今の北朝鮮および吉林省延辺朝鮮族自治州)が興り、朝鮮半島南部(今の韓国)は新羅、百済、加羅が鼎立し、そのなかの百済は、南朝後期の梁との関係が深く、仏像も梁の様式(註)だったと思われます。

 やがて6世紀の末から隋や唐という全中国を統一する王朝が開かれることによって南北朝時代は終わり、668年に唐が新羅と連合して高句麗を破って吸収し、新羅が朝鮮半島を統一して、東アジアの政治情勢は安定しました。

(註)梁の様式:飛鳥寺釈迦如来坐像、法隆寺の百済観音や夢殿救世観音、金堂釈迦三尊などが梁様式の影響を受けていたと考えられます。

飛鳥、河内と渡来人

 大陸で王朝が交代したり、朝鮮半島で国々が滅亡したりするたびに、少なからぬ人々がわが国に渡ってきて渡来系氏族として定着し、先住の大王や豪族とともに倭というモザイク国家を徐々に形成していきました。半島南端の伽耶(加羅) が滅んだときに渡来してヤマト王権に仕えた人々の後裔が「東漢人(やまとのあやひと)」、百済が滅んで以降に渡来して河内に定着したひとびとを「西漢人(かわちのあやひと)」、それ以後の渡来人は「今来漢人(いまきのあやひと)」と渡来時期によって区別されます。彼らは、朝廷の行政事務や文書作成に携わったほか、製紙や絹織物などにも長けていたと思われます。ちなみに「あやひと」は「綾織り」からきていると考えられます。彼らが、文明的には後進地域であった倭が近代化するために大きな力となったことは間違いありません。