10世紀は仏像彫刻の谷底?

 一木造で盛んに用いられたカヤノキは、群生しないためにヒノキに比べてその資源量に限りがありました。10世紀になると、多くの仏像需要が発生したために、良質なカヤノキが枯渇し始めます。また寺院が山岳地に造営されたため、材木の調達を、周辺に生えていたヒノキを用いるようになりました。

 そして巨木を用いた一木造は大量生産に向かないことから、腕を別材にしたり数本の材を用いて体幹部を制作するようにもなりました。こうした木寄せ作業は、杣人(そまびと)や建築工人が請け負ったと思われ、それを証明するかのように10世紀に造られた仏像は前代に比べると造形が稚拙で動勢が不自然なものが多くなります。以前の仏像彫刻史では、この時代を平安前期と後期に挟まれた「仏像彫刻の谷底」と見做されていたのですが、時代の転換点であったことを考えるととても面白い個性的な時代であったといえます。またこの時代を経ることによって、朝鮮半島や大陸の影響が強かったわが国の仏像様式が、ようやく日本特有の様式が確立されたのです。

定朝から慶派へ

 10世紀後半に生まれた定朝は、阿弥陀如来坐像の理想形を求めて、美しく無駄のない仏像の比率を定め、複数の角材を用いて体幹部を組み立てる寄木技法を集大成し、干割れの防止と重量の軽減のために内刳(うちぐ)りを施し、布張り漆箔(しっぱく)という仕上げ方法を完成させました。これらを総合して「定朝様(じょうちょうよう)」といい、「仏の本様」として永く後世の仏像制作に大きな影響を与えました。

 定朝の後を継いだ彼の子や孫たちは院派、円派と呼ばれた工房を形成し、夥しい定朝様の阿弥陀如来坐像を制作しました。また彼の孫の頼助(らいじょ)が興福寺の仏像の制作と修復のために平城京に移り住み、その後裔がのちに「奈良仏師」「慶派」と呼ばれるようになりました。

 「定朝から慶派へ」は、あまりにも語ることが多いので、各論で詳しくお話ししたいと思います。とりあえず、第1回の概論はここまでにしておきましょう。

2017年に奈良県で開催された「国民文化祭」のマスコットキャラクター、せんとくんのデザインは著者の籔内佐斗司氏
2017年に奈良県で開催された「国民文化祭」のマスコットキャラクター、せんとくんのデザインは著者の籔内佐斗司氏

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