白鳳から天平時代
新羅が百済を滅ぼして朝鮮半島を統一したことによって、わが国との関係がぎくしゃくし始めます。そこでわが国は、唐との親交を深めようと積極的に遣唐使を送りました。その結果、薬師信仰と国家仏教である盧舎那仏信仰が盛んになり、その頂点が東大寺の造営でした。
645年の乙巳(いっし)の変で蘇我氏本流が滅んだことにより、天皇を補弼(ほひつ)する勢力として急速に台頭してきたのが中臣氏から分かれた藤原氏でした。藤原不比等は、聖武天皇の外戚として国家仏教を推進し、また天皇家の世継ぎを生む家系として近代まで連綿とその役目を果たしました。
この時代の代表的寺院は、東大寺の他に、興福寺、薬師寺、西大寺、大安寺などが挙げられます。また仏師では、東大寺造仏司の中心人物であった国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)が有名です。彼の配下には夥(おびただ)しい仏師がいたと思われますが、一介の工人の名前が残ることは殆どありませんでした。

鑑真来朝から平安時代初め
国力を度外視した平城京や大寺院の造営は、ものすごいインフレを呼び、また森林資源の枯渇や鉱毒のなどの社会不安をもたらしました。やがて、唐の基準に準拠した授戒制度を導入するため、江南の名僧・鑑真を招き、わが国にも戒壇を設けて授戒を行うことになりました。彼は、多くの僧侶の他に仏像を造る工人も伴っていました。この時期に用いられた材木は、江南地方の仏像用材の「栢(はく)」に最も近いカヤノキが中心で、彼らによって木彫王国日本の基礎が造られたといえます。
しかし天平時代末期に起こった社会不安と寺院の政治介入や皇統の変化が、大和国から山城国への遷都を促しました。そして平城京での仏教勢力の干渉に懲りたため、南都寺院の平安京移転を禁じ、遣唐使がもたらした天台山の仏教や真言密教を積極的に興隆させます。
また、唐から請来した仏像や渡来した仏工が造ったと考えられる精緻な仏像も多く残されています。そして真言宗も天台宗も山岳修行が重視され、神仏習合や修験道が盛んになり、夥しい種類の仏像が造られました。



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