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 いにしえの大寺院や仏像は、それぞれの時代や国の最高の美意識と財力を結集して造られました。現代でいえば、国家の威信を賭けた公共建造物や宇宙開発のような位置づけであったといえます。わが国でも、6世紀半ばの仏教公伝以来、時の為政者たちは力を尽くして仏像を造り続けました。それは仏教が国家から庶民へと拡散して、もはや巨大な仏像を必要としなくなる15世紀頃まで続きました。

 本講座では、わが国において仏像が造られてきた時代背景を踏まえ、その節目節目で仏像の様式や制作技法が変遷した理由を解き明かしながら、仏像の発注者と制作者の葛藤などを、現代のビジネスシーンにも通じる物語としてお話ししていきたいと思います。初回である今回は、飛鳥時代から鎌倉時代までの大きな流れを概観いたします。

華厳世界(図:籔内佐斗司、以下同)

飛鳥時代 仏像黎明期

 3世紀から6世紀までに、中国の江南地方を中心に六つ王朝が勃興した時代を六朝時代と呼び、釈迦や観音が熱心に信仰されました。一方、4世紀以降の黄河流域の王朝、特に北魏などでは、仏教によって全インドを統一したアショーカ王を理想とした国家仏教による統治が行われ、盧舎那仏や弥勒仏が熱心に造立されました。

 この二系統の仏教が朝鮮半島の国々を経て、わが国にもたらされました。江南地方で盛んに信仰された観音菩薩などは百済を通じて飛鳥へ、一方、黄河流域の盧舎那仏などの信仰は高句麗や新羅を経て平城京にもたらされました。

 『日本書紀』によると、6世紀半ばに百済王から欽明天皇に仏像が贈られた時が、わが国への仏教公伝とされます。新羅から圧迫を受けていた百済王は、ヤマト王朝を中国南部の同盟国に引き入れたかったのでしょう。仏教受容時の混乱については次回に詳しくお話しいたしましょう。

アショーカ王
聖徳太子