「なあ、どう思う?」
「なあ、どう思う?」
岡康道は、いつも意外な質問を投げかけてくる男だった。
「満員電車って狂ってないか?」
と、高校に入学して間もない頃、そんなことを言っていた。
「狂ってるけど、乗らないと学校に来れないしな」
「でも、乗ってる全員が我慢してるっておかしくないか?」
たしかにおかしい。そして、その四十数年前の岡の問いに、私はいまだに適切な答えを見つけられずにいる。そういう質問が山ほどある。
「8月ってこんなに暑い必要あると思うか?」
「別に必要で暑いわけじゃないしな」
「そりゃそうだけど、全世界が全部暑いわけじゃないぞ」
「どういう意味だ?」
「だからさ。探せば涼しい場所もあるっていうことだよ」
「まあな」
「だろ? 涼しい場所に行かないのってただの間抜けだと思わないか?」
この質問は、実はフェイクで、本当のところは北海道大学を一緒に受験するプランに私を誘い込むためのプレゼンの導入部だった。
「おまえはこんな暑い土地でキャンパスライフを送るつもりなのか?」
と、そんな調子の説得が二学期の間じゅう続いた。私はまんまとひっかかって、翌年の2月には羽田発千歳空港行きの飛行機に搭乗していた。
こんなこともあった。
「オレが何を考えてるかわかるか?」
「……んー、どうせおまえにはわからないって考えてるだろ?」
「違うな。どうせおまえにはわからないと考えているとおまえが答えるだろうなと思ってた。とりあえずそれがひとつ」
「……ほかに何かあるのか?」
「おまえはすでに遅刻してるけど、それでいいのかなって思ってる」
「……あっ」
忘れもしない。私がある大切な会合(内容は言いたくない)に2時間遅れて、誰も待っていない場所にたどり着く直前にかわした会話だ。こういう時でも、岡は演出を怠らない男だった。
もっとも、岡の質問の大半は
「そんなことも知らないのか?」
「どうしてこんな当たり前のことにいちいち疑問を持つんだ?」
という感じの、常識以前の疑問だった。そういう意味では、おそろしく無知な部分とみごとにナイーブな感受性を最後まで失わない男でもあった。
私は、いつもその質問に答える役割を与えられていた。
「与えられていた」という書き方をしたのは、私にとって、岡から発せられる質問が、アイディアの出発点でもあることにいつしか気付かされたからだ。
新卒で就職して大阪で半年ほど暮らした頃、私を最も苦しめたのは、自分自身がまるで面白くない男になっていることだった。
その理由の半分ほどは、私が、素っ頓狂な質問を投げかけてくる相棒を失っていたからだった。どういうことなのかというと、私は、
「なあ、どう思う?」
と、奇妙な問いを発してくるコール&レスポンスの相手を抜きにして、自分のオリジナルのジョークを発信する技術を身に着けていなかったのだ。
私は、愚図だった。その点はいまでも基本的には変わっていない。私は、自分で企画して何かをはじめたり、自分でルートを発見して歩き出したり、自力で発案したジョークを世に問うたりすることが苦手な性質で、誰か、背中を押してくれたり、行き先を示唆してくれる人間の助力なしには、ほとんど何ひとつ始めることができない。そういう宿命にうまれついている。これは変えることができない。
岡康道がいなくなった世界で3日ほど暮らしてみて、いまつくづくと思っているのは、大切なのは、投げかけられた質問にうまい答えを返すことではないということだ。本当に重要なのは、問いを発する仕事なのだ。新しい問いを立てることのできる人間は限られている。岡は、質問に回答する役割としても優秀なクリエーターだったが、それ以上に、問いを立てる人間として替えのきかない、ほとんど唯一の存在だった。その意味で、岡康道は卓抜な企画者であり、大胆な改革者であり、危険きわまりないアジテーターだった。
若い頃、岡に誘われたり、挑発されたり、そそのかされたりして始めたことがいくつかある。そのほとんどすべては、言うまでもないことだが、北大受験をはじめとして、手ひどい失敗に終わっている。いま60歳を過ぎてみて思うのは、それらの、はじめから挑戦する価値さえなかったように見える失敗から学んだことが、結局のところ、自分の財産になっているということだ。つまり、ひと回りした時点から振り返ってみて、彼は、まぎれもない恩人だったわけだ。
行く手に落とし穴を掘ってくれるパートナーを失って途方に暮れている。
実は、型通りに冥福を祈って良いものなのかどうか気持ちが定まっていない。
「冥福には早すぎる」
てな調子のセリフを言いながら
「こういうのってちょっとカッコイイだろ?」
と、あの笑顔で笑ってくれたらうれしい。
とりあえず、さようならと言っておく。また会おう。
(文:小田嶋 隆)

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