日経ビジネスオンライン時代からの長寿コラム「人生の諸問題」の語り手のお一人、岡 康道さんが2020年7月31日に63歳でお亡くなりになりました。
岡 康道さんは東京都立小石川高校から早稲田大学へ進学、電通に営業として入社後、クリエーティブ局へ転籍。CMプランナー、クリエーティブディレクターとして、JR東日本の「その先の日本へ。」「東北大陸から。」、サントリーでは「モルツ球団」など、数々の傑作CMを世に送り出します。その後電通から独立し、川口清勝、多田琢、麻生哲朗各氏とともに、広告制作のクリエーティブエージェンシー「TUGBOAT(タグボート)」を設立。広告提供枠の料金ではなく、広告制作物自体で対価を得るビジネスを日本で初めて立ち上げました。
日経ビジネスオンラインでは2007年から、高校時代の同級生である小田嶋 隆さんと「人生の諸問題」を語っていただきました。
編集部一同、心よりご冥福をお祈りいたします。また、すでに掲載終了となっていた「人生の諸問題」を順次再公開し、本記事の最後のページからお読みいただけるようにしていきます。
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今回は岡さんへの追悼稿を掲載し、これをもって「人生の諸問題 令和リターンズ」の最終回とさせていただきます。
最初は清野由美さん。日経ビジネス編集部に岡さん、小田嶋隆さんをご紹介いただいたジャーナリストです。この「人生の諸問題」の連載の企画・司会・原稿執筆は、すべて清野さんがやってくださっていました。
そんなのは、まっぴらよ!
それは砂袋で頭をなぐられたような、重く鈍い衝撃だった。袋は直後に破れて、足元にどさどさと砂が落ちていったものだから、うまく歩けない。ただ、知らせを受けた時、街の雑踏の中にいたことは、せめてもの救いだったかもしれない。岡康道急逝の報を、静かな室内で受け取っていたら、身体を保つことはできなかっただろう。目の前には、陽光降り注ぐ夏の光景が広がっていた。
20世紀の最後、バブル景気が終わり、日本が「失われた10年」に突入した時代に、広告業界を代表するCMプランナーとして脚光を浴びた。手がけた作品は、サントリー、JR東日本、フジテレビなど、錚々たるクライアントのもので、1996年にはJAAA(日本広告業協会)クリエイター・オブ・ザ・イヤー特別賞、TCC(東京コピーライターズクラブ)最高賞3部門同時受賞、ADC(東京アートディレクターズクラブ)賞と主要な賞を総なめにした。
日本の広告が最も元気だったのは70年代、そして、最も華やかだったのは80年代だ。岡が頭角を現した90年代は、糸井重里、仲畑貴志らに代表されたコピーライターブームやバブル経済という追い風が急速に冷めていた時期だが、それでもテレビ広告は大きな影響力を持っていた。その黄金期に遅れず、天性の才を開花させた岡は、だから強運の持ち主だったといえる。
電通の中で出世街道を進みながら、「クリエーティブに対するフィーの確立」をうたって、突然、独立を宣言したのは99年だった。そこには、「制作、表現こそが価値を持つ」という、21世紀のイノベーションにつながる重要なビジョンが込められていた。
当時、日本の広告会社を支えた利益構造の柱は、媒体の仲介手数料だった。マスメディア、中でもとりわけTVの広告枠を押さえ、それをクライアントに売ることで稼ぐ方法である。
そのモデルがあまりに巨大で、盤石だったので、広告を実際に制作するクリエーティブ部門は、長く「付帯サービス」の扱いに甘んじていた。業界の雄に属し、制作環境に恵まれていた時から、この構造に対する疑問は、自身に張り付いて離れなかったと、岡はいう。
クリエーティブに対する価値と報酬を確立するには、コミッションビジネスの構造から独立することだ。それは「日本」という、どうしようもなく旧弊で、がんじがらめのシステムへの反逆でもあった。その危険な賭けを颯爽とやってのけたことが、岡康道のスターたるゆえんだった。
ただし、岡の「作風」は、本人が発する強く華やいだイメージとは逆に、暗く、湿度のあるものだった。
飲み屋でエリート風の男たちがぶいぶいとオレさま語りをしている隅で、塩をふいたような物悲しい靴で、彼らに反感を募らせているサラリーマン。
友人の結婚式で「おめでとう」と拍手を送りながら、「ヘンなドレス、ヘンな男、ヘンな親」と、胸の中で悪態をつく女性。(いずれも「フジテレビが、いるよ。」)
あるいは、サントリー「南アルプスの天然水」では、清冽な景色の中で少女が交わす会話から、ドキリとする生々しさを切り取る。
岡がCMに載せた毒と抒情は、業界の類型とは一線を引く表現であり、同時にCMの本質をもはずれたものであった。つまり、CMの私小説化だ。それをメジャーなクライアントによるマスCMとして成立させたところに、岡の才と、メディア・広告が輝いていた時代を感じずにいられない。
成功の結節点を、「個人のエゴと理想がまじわるところ」と、岡は表していた。背景には青年時代に背負った「父と息子」の物語があった。
自伝的小説『夏の果て』にも記されているように、経営コンサルのような、山師のような父は、岡の幼年時代から、つねに一家を翻弄し続けた。男子たるもの、という父の想念を受けて育った長男の岡にとって、その存在は大きく、ゆえに生涯消えることのない鬱屈の大もとでもあった。
2007年から本年まで13年にわたって「日経ビジネスオンライン」「日経ビジネス電子版」で続いた連載対談「人生の諸問題」では、盟友、小田嶋隆とともに、東京都立小石川高校、浪人、早稲田大学、その後、と各時代のエピソードを繰り返し語って、尽きることがなかったが、それは双方に盤石の持ちネタがあったからだ。岡は大学時代に経験した実家の破産と父の失踪、小田嶋は30代をまるまるアルコール中毒で棒に振ったこと――と、あらためて記すと、ひどい話ではあるが、ふたりにかかると、それが、ゆるく自由だった昭和ならではの、この上ない冒険譚に聞こえてしまうのだ。
会話の根底には昭和の感性というべき「韜晦」のレトリックが、いつも流れていた。
たとえば「一浪して京都大学に進学して、大原三千院のあたりで美しい女性と出会うはずだったのに、早稲田大学に決まって、都の西北で青春が暗いまま終わってしまった」など、聞きようによっては嫌味になりかねない言い分が、かけあいの中で、ものすごく面白いおバカな話になる。その韜晦を真に受けて、「本当ですね」なんて、あいづちを打ちようものなら、それこそ「シャレをわからないバカ」と、憤激が返ってくる。ひらたくいうと、面倒くさいダンディズムである。
ただし、そのダンディズムが似合うこと、超一流の人が岡康道だった。自身が持つ世俗的な価値と複雑な内面を、天才的な勘でバランスさせて、したたかに、魅力的に人生を生き抜いていた。
同時に「?」と首をひねるような、抜けたところも多々ある人格で、だからこそ、多くの人に愛された。
たとえば、「(待ち合わせ場所の喫茶店が)わからないんだよ」と電話をかけてきた岡その人の姿が、まさしく、その店のドアの真ん前にあったり(岡さん、すでに到着してますよ、そこに)。
頼んだスープを(コロナの今では信じられないことだが)みんなに分けようと、必死になって平皿に注いでいたり(何やってんですか、岡さん?)……。
そんなこんなで、あきれたり、笑ったり、怒ったりしながら、いつの間にか干支がひと回り以上。昨年7月に刊行された対談集第4弾『人生の諸問題 五十路越え』の「おわりに」に、岡はこう書いた。
「対談集を10冊まで続けたいと私は夢を見ている。小田嶋はすぐさま賛成するだろうが、清野さんは『まっぴらよ!』と言うであろう」
岡さん、まちがっています。私だって、すぐさまはちょっとわからないけど、賛成しますよ。いや、その前に、「まっぴらよ!」なんて言葉は使わないし……。
だから、いま、使うよ。こんな突然にお別れがくるなんて。本当に、本当に、そんなのは、まっぴらよ!
(文:清野 由美)
お二人目は、福岡を基点に長くCMを制作し、現在は映画監督として活躍している江口カンさんです。
映画通としても知られた岡さん。日経ビジネス電子版の「戦力外通告を突きつけられた人はどうするべきか」では、岡さんが江口さんが初めて撮った映画「ガチ星」への感想を語っています。合わせてお読みいただければ幸いです。
一生褒めてもらえることなんてないと思っていた
実は岡さんと実際にお会いしたのは3度しかありません。
おこがましいのは重々承知の上で、この場をお借りしてお礼を言わせていただくことをお許し下さい。
岡さんには、2008年のJ R九州のCMでお世話になりました。
当時の僕は、作ったものが少しだけ話題になり始めた頃でした。
岡さんはすでに超有名人、スターでした。
生み出すものはすべて知性的かつぶっ飛んでいて、正直言って広告業界で一番の憧れでした。
そんな人からディレクターとしてのご指名を受けて興奮していたし、とても緊張もしていました。
「岡さんに一発で認められたい」
そう張り切って作ったCMは、岡さんからあっさりダメ出しされました。
僕はすっかり落ち込んでしまいました。
その後、喫茶店で(岡さんは酒が飲めないし、すぐに帰京するということで)お茶しながら話しました。憧れの岡さんはとても気さくで、映画の話も家族の話も下ネタも全て面白くて楽しい時間だったのですが、僕は勝手にショックを引きずっていて、なんだか上手く話せませんでした。
それから数年後、たまたま東京でバッタリお会いしました。
最初の出会いがそんな感じだったので一瞬躊躇しましたが、思い切って声をかけると、
「売れてきてるみたいだけど、あんまりこっちにいないほうがいいよ。他の人と同じように東京に出るのではなく、地に足をつけておけよ」
というふうなことを言われました(後にご本人は「適当に言った」とおっしゃってますが)。
それはまさに僕がその当時迷っていたことへの明快な答えでした。
それからずっとお会いすることはありませんでした。
僕は、岡さんのアドバイスもあり、あえて福岡に住み続けながら東京の仕事をやるスタイルがむしろ面白がられ、仕事のペースを上げていきました。
そして2年前のある日、突然岡さんからのメールが届きました。
「ガチ星観ました。よかった、面白かった。いい映画、ありがとうございました」
という短い文章。
飛び上がるほど嬉しかった。
それは、僕の初めての映画「ガチ星」への感想でした。
映画処女作で評価も分かれ、かなり自信が揺らいでいたところに岡さんからのこのメール。
しかもよく考えたら岡さんから直接メールを頂いたのは初めてだったのです。
あの岡さんが、わざわざ僕の映画を観てくれた。
面白かったって伝えるためにわざわざメールしてくれた。
一生褒めてもらえることなんてないと思っていた岡さんから面白いって言ってもらえた。
僕とこの映画にとって、これだけで十分満足でした。
そして先日、岡さんの突然の訃報を聞きました。
奇しくもそれは、かつてドラマ(※)で岡さんの役を演じた堤真一さんと映画の撮影をしている最中でした。
なんだかそばに岡さんがいて、やっぱり見られているんじゃないかという気分になります。
いや、むしろそうであって欲しい。
今の自分は岡さんに褒められるようなものを作っているだろうか。
今も心のどこかで岡さんに褒められたい、認められたいと思っているし、これから先もずっとそうだと思います。
岡さん、ありがとうございました。
少しゆっくりして下さい。
そしてこれからもよろしくお願いします。
(文:江口カン)
(※2002年フジテレビ「恋のチカラ」。また、NHK BSプレミアム「私は父が嫌いです」は岡さんの小説『夏の果て』が原作でした)
左から小田嶋さん、清野さん、岡さん(写真:柳瀬 博一)
次は岡さんの弟、岡 敦さんです。敦さんには日経ビジネスオンラインで「生きるための古典 〜No classics, No life!」を連載していただき、集英社新書から『強く生きるために読む古典 』として刊行されました(2020年8月5日現在「もう一度読みたい」で、連載の一部がお読みいただけます)。敦さんがイラストを描いた兄弟合作の『広告と超私的スポーツ噺』(玄光社刊、2020年4月)が、岡さんの最後の本となりました。
最後の会話
兄と最後に話をしたのは、いつだったろう。
7月の中頃、兄が再入院(最後の入院)する前だったろうか。
たしか、ぼくは自分の部屋のなか、机の前に立ち、茶色いドアにぼんやりと視線を向けながら、30分ぐらい電話を耳にあてていたのだった。
内容は、まさかそれが最後になるとは考えていなかったから、マルクスの土台上部構造論だの、マンハイムのイデオロギー概念だのと、今こうなってから振り返ると、まったくどうでもいい、つまらないことを、しかしそのときは互いに少し興奮しながら話していたように思う。
しかし話題は少しずつ移り、やがて、どういう流れだったのか覚えていないけれど(そうだ、その頃は母が高齢者施設に入居する、その準備をしていたはずだから、そんな話題の直後だったかもしれない)、兄が突然大きな声ではっきりと言った。
「あぁ、歳をとるってやなもんだな」。
ぼくは、ひどく驚いてしまった。
ぼくたちの育った家は、巨額の負債を背負ったり離散したりした。その前にも後にもいろいろな経験をしたけれど、兄もぼくも、それらのことを怒ったり嘆いたり恨んだりしたことは、ただの一度だってなかった。
誰に教わったわけでもないけれど、子供の頃からずっと、ぼくらは「必然的にやってくるものを拒む」ようなことはしなかったのだ。たとえそれが、どれほどネガティブなものであったとしても。
来るものは来るのだから、嫌がってもしょうがないだろ。嫌がるだけ損だ。それは来るものだと認めたうえで、さあどう受けて立とうかと考えようぜ。
とりわけ兄は、そうだった。来るものが来る、それは兄にとっては、新しいゲームの始まりのようなもの。さあどんなふうに乗り切ってやろうか、どう対応すれば面白いだろう、そうだ、こうやってやっつけてやれば、きっとみんな驚くぞ。
などと想像して目を輝かせ、ワクワクする気持ちを抑えられずにいる。いつも兄は、そんなふうに見えたのだった。
その兄が、避けることのできない「老化」について、嫌だ、と強い調子で拒んでいる。大袈裟に言えば、その言葉は、ぼくの耳に非現実的な響きを残した。
戸惑った。兄が今、何を想い何を考えているのか、このときは想像もできずにいた。
返す言葉も思い浮かばなくて、ただ小さな声で、「だね」と曖昧な相槌を打った。
兄は、なおも、たかぶる想いが収まらないらしく、追撃するような勢いで「歳はとりたくねえなあ」と続けた。
応えられずに、ぼくは黙った。
兄も口をつぐんだ。
そして、少し間をおくと、兄は普段の自分を取り戻して、自嘲気味に笑いながら、まあ、オレのこの病気も老化かもしれないけど、と付け加えたのだった。
(文:岡 敦)
写真中央が岡さんの弟、岡 敦さん。「人生の諸問題」登場回も再公開させていただきます(写真:大槻 純一、撮影協力「
杏奴」※当時は東京都豊島区のお店でしたが、現在はリンク先に移転されています)
最後は、岡さんの同級生にして「人生の諸問題」の相方、小田嶋隆さんです。
「なあ、どう思う?」
「なあ、どう思う?」
岡康道は、いつも意外な質問を投げかけてくる男だった。
「満員電車って狂ってないか?」
と、高校に入学して間もない頃、そんなことを言っていた。
「狂ってるけど、乗らないと学校に来れないしな」
「でも、乗ってる全員が我慢してるっておかしくないか?」
たしかにおかしい。そして、その四十数年前の岡の問いに、私はいまだに適切な答えを見つけられずにいる。そういう質問が山ほどある。
「8月ってこんなに暑い必要あると思うか?」
「別に必要で暑いわけじゃないしな」
「そりゃそうだけど、全世界が全部暑いわけじゃないぞ」
「どういう意味だ?」
「だからさ。探せば涼しい場所もあるっていうことだよ」
「まあな」
「だろ? 涼しい場所に行かないのってただの間抜けだと思わないか?」
この質問は、実はフェイクで、本当のところは北海道大学を一緒に受験するプランに私を誘い込むためのプレゼンの導入部だった。
「おまえはこんな暑い土地でキャンパスライフを送るつもりなのか?」
と、そんな調子の説得が二学期の間じゅう続いた。私はまんまとひっかかって、翌年の2月には羽田発千歳空港行きの飛行機に搭乗していた。
こんなこともあった。
「オレが何を考えてるかわかるか?」
「……んー、どうせおまえにはわからないって考えてるだろ?」
「違うな。どうせおまえにはわからないと考えているとおまえが答えるだろうなと思ってた。とりあえずそれがひとつ」
「……ほかに何かあるのか?」
「おまえはすでに遅刻してるけど、それでいいのかなって思ってる」
「……あっ」
忘れもしない。私がある大切な会合(内容は言いたくない)に2時間遅れて、誰も待っていない場所にたどり着く直前にかわした会話だ。こういう時でも、岡は演出を怠らない男だった。
もっとも、岡の質問の大半は
「そんなことも知らないのか?」
「どうしてこんな当たり前のことにいちいち疑問を持つんだ?」
という感じの、常識以前の疑問だった。そういう意味では、おそろしく無知な部分とみごとにナイーブな感受性を最後まで失わない男でもあった。
私は、いつもその質問に答える役割を与えられていた。
「与えられていた」という書き方をしたのは、私にとって、岡から発せられる質問が、アイディアの出発点でもあることにいつしか気付かされたからだ。
新卒で就職して大阪で半年ほど暮らした頃、私を最も苦しめたのは、自分自身がまるで面白くない男になっていることだった。
その理由の半分ほどは、私が、素っ頓狂な質問を投げかけてくる相棒を失っていたからだった。どういうことなのかというと、私は、
「なあ、どう思う?」
と、奇妙な問いを発してくるコール&レスポンスの相手を抜きにして、自分のオリジナルのジョークを発信する技術を身に着けていなかったのだ。
私は、愚図だった。その点はいまでも基本的には変わっていない。私は、自分で企画して何かをはじめたり、自分でルートを発見して歩き出したり、自力で発案したジョークを世に問うたりすることが苦手な性質で、誰か、背中を押してくれたり、行き先を示唆してくれる人間の助力なしには、ほとんど何ひとつ始めることができない。そういう宿命にうまれついている。これは変えることができない。
岡康道がいなくなった世界で3日ほど暮らしてみて、いまつくづくと思っているのは、大切なのは、投げかけられた質問にうまい答えを返すことではないということだ。本当に重要なのは、問いを発する仕事なのだ。新しい問いを立てることのできる人間は限られている。岡は、質問に回答する役割としても優秀なクリエーターだったが、それ以上に、問いを立てる人間として替えのきかない、ほとんど唯一の存在だった。その意味で、岡康道は卓抜な企画者であり、大胆な改革者であり、危険きわまりないアジテーターだった。
若い頃、岡に誘われたり、挑発されたり、そそのかされたりして始めたことがいくつかある。そのほとんどすべては、言うまでもないことだが、北大受験をはじめとして、手ひどい失敗に終わっている。いま60歳を過ぎてみて思うのは、それらの、はじめから挑戦する価値さえなかったように見える失敗から学んだことが、結局のところ、自分の財産になっているということだ。つまり、ひと回りした時点から振り返ってみて、彼は、まぎれもない恩人だったわけだ。
行く手に落とし穴を掘ってくれるパートナーを失って途方に暮れている。
実は、型通りに冥福を祈って良いものなのかどうか気持ちが定まっていない。
「冥福には早すぎる」
てな調子のセリフを言いながら
「こういうのってちょっとカッコイイだろ?」
と、あの笑顔で笑ってくれたらうれしい。
とりあえず、さようならと言っておく。また会おう。
(文:小田嶋 隆)
「人生の諸問題」バックナンバー
「人生の諸問題」の過去記事はこちらからお読みいただけます。システム上の理由で、本コラムのバックナンバーとして収録することができず、「もう一度読みたい」という欄での掲載となりますが、どうかご容赦ください。古い順に転載を進め、最終的にはすべての回を再録する予定でおります。このページに各回のタイトルとリンクを追加していきますので、岡さんを思い出したいときに、お訪ねいただければと思います。
ネット上には岡さんを悼む声、そして、過去の優れたインタビューが多々ございます。もし、岡さんを愛した方と共有したい記事がございましたら、コメント欄にお寄せください。
●01 2007年9月14日
「文体模写」「他人日記」「柿」
●02 2007年9月28日
「猿」と「太宰治」と「プレゼン」と
●03 2007年10月5日
「チャンドラー」と「JASRAC」と「新聞紙」と
●04 2007年10月12日
「受験」と「恋愛」と「デニーズ」と
●05 2007年10月19日
「体育祭」と「自己破産」と「男の子」と~第2走者の憂鬱
●06 2007年10月26日
「ルール」と「法哲学」と「アメリカ」と
●07 2007年11月2日
「息子」と「宴会芸」と「君が代」と
~お父さんは、数学で1点を取りました
●08 2007年11月9日
「パパ社長」と「自分探し」と「プロジェクトX」と
●09 2007年12月14日
「ワイドショー」と「資格」と「十二人の怒れる男」と
●10 2007年12月21日
「夢」と「離婚」と「セカンドライフ」と
●11 2007年12月21日
「セカンドライフ」と「藤沢周平」と『こころ』と
●12 2008年2月1日
「クオーターバック」と「天秤打法」と「スイング」と
●13 2008年2月15日
「幻聴」と「アル中」と「禁煙」と
●14 2008年2月22日
「仕事」と「家庭」と「広告」と
●15 2008年2月29日
「テレビ」と「ウェブ」と「著作権」と
●16 2008年3月7日
「地デジ」と「カンヌ」と「ギャンブル」と
※ここまでが通称「シーズン1」となります。
●17 2008年12月12日
「テレビCM」と「家族」と「フッキング」と
おまたせしました、シーズン2開幕!
●18 2008年12月26日
「創作」と「違和感」と「思春期」と
「『ハケン切り』の品格」大反響、オダジマコラムの“書き方”に迫る
●19 2009年1月23日
「礼儀」と「品格」と「役割」と
●20 2009年1月30日
無責任なり、60年代野郎!
「新展開」と「第三の男」と「兄弟」と
●21 2009年2月6日
神田川の男、ルージュで伝言する女
「撤退」と「冷笑」と「インポテンツ」と
●22 2009年2月13日
番外編:ボクシングに人生の諸問題を学ぶ
「スターウォーズ」と「モーターシティコブラ」と「悪魔王子」と
●23 2009年3月13日
NYで髪を切りに行って、耳を切られました
「リアル」と「訴訟」と「いじめ」と
●24 2009年3月27日
この世で唯一有効な「才能」とは
「オバマ」と「モチベ」と「嫉妬心」
●25 2009年4月3日
女々しきぼくらの餅つき合戦
「ナンパ」と「終電」と「よき敗者」と
●26 2009年4月10日
男だったら、天下国家を語れるべき?
「ゴッドファーザー」と「おじさん」と「おばさん」と
●27 2009年4月17日
たかが仕事、人生いたる所にイタリアあり
「バイト」と「蟹工船」と「バックギャモン」と
●28 2009年4月24日
O氏の電通入社試験突破作戦
「バックギャモン」と「腎臓破裂」と「文案」と
●29 2009年5月15日
話はまだまだ続くけど、「人生2割がちょうどいい」
※ここまでが通称「シーズン2」となります。
※以降も順次再掲載を進めてまいります。なお、2016~18年分はこちらからお読みいただけます。
岡さん、どうぞ安らかにお過ごしください。
メンツがあちらに揃ったら、ぜひ、「天国の諸問題」で連載を再開しましょう。
■変更履歴
記事掲載当初、本文中にありましたお名前の間違い、ご紹介の一部を修正しました。4ページ目で撮影にご協力いただいたお店は巣鴨の「
REST rest REST」でした。 コメント欄でご指摘をいただき、江口カンさんが触れているドラマについての情報を訂正しております。ありがとうございました。[2020/08/08 8:00]
この記事はシリーズ「人生の諸問題 令和リターンズ」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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