2019年8月9日、19年度の最低賃金改定額が全都道府県で出そろいました。最高額は東京都1013円、続いて神奈川県1011円と初めて1000円を超えました。
もらえる賃金の最低ラインが上がるのは、我々労働者にとって喜ばしい話です。特に、10月から消費税が10%になりますから、上がってもらわないと困ります。
ところで、そもそも論ですが、なぜ最低賃金が決まっているのでしょうか。法律(最低賃金法)で決まっていることをご存じでしたか? その第一条に目を向けてみましょう。
賃金の低廉な労働者について、賃金の最低額を保障することにより、労働条件の改善を図り、もつて、労働者の生活の安定、労働力の質的向上及び事業の公正な競争の確保に資するとともに、国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする。
つまり最低賃金制度がなければ、以下図のように、ものすごく安い賃金でも働かざるを得ない労働者が現れる可能性があります。そこで、分布の左側(相対的に見て賃金が低い層)で線を引き、それを下回る労働者が現れないようにするのが最低賃金の役割です。
最低賃金は、労働者の生活のためだけでなく、アダム・スミスの「国富論」で説かれたように賃金上昇が経済発展に貢献するという理論を背景に、長い歴史の中で培われた人間社会が長く発展していくための知恵だと私は考えています。
しかし、法律の一文にある「生活の安定」した状態にあると、どれほどの労働者が感じているでしょうか。「平成30年国民生活基礎調査」によると、世帯の生活意識を問う質問に、57.7%が「苦しい」と回答しています。
世帯の生活意識の年次推移
「平成30年国民生活基礎調査」(厚生労働省)
だから、貧困対策のためにも「もっと最低賃金を上げろ」「1500円だ!」と声をあげている労働者もいます。しかし最低賃金を上げることは貧困対策に本当に貢献するのでしょうか?
最低賃金は貧困対策の最善策なのか?
そもそも、何をもって「貧しい」とするのかは主観によって違います。貧困を気持ちの問題で済ませるつもりは全くないのですが、客観的な測り方が必要です。
実は「貧困」には明確な定義があります。厚生労働省の国民生活基礎調査によれば、「手取りの世帯所得(収入から税や社会保険料を引き、年金等の社会保障給付を足した金額)を世帯人数の平方根で割った等価可処分所得の中央値の半分」=貧困線(相対的貧困ライン)と決まっています。
仮に手取りの世帯所得が400万の場合、世帯人数が2人なら「400÷√2」で約283万円、3人なら「400÷√3」で約231万円が等価可処分所得になります。
貧困線は調査対象が多い大規模調査年のみ集計しています。最新の「平成28年国民生活基礎調査」によると等価可処分所得の中央値の半分である貧困線は122万円だと分かっています。仮に単身30代労働者なら、税引き前所得の年収は約150万円と計算できます。年間2000時間(週休2日8時間)労働と仮定すると時給は750円。2019年度の改定後は、どの県の最低賃金よりも下回ると分かります。
この結果を単純に見れば、最低賃金の上昇は世帯所得の向上につながり、相対的貧困から抜け出せる糸口になるように見えます。
しかし調べてみると、そうではなさそうな分析もされています。2009年に発表された一橋大学の川口・森論文によると、2002年において最低賃金で働いていると考えられる労働者の約50%は、年収が500万円以上の中所得世帯の世帯員だと分かりました。
一方、最低賃金で働いていると思われる労働者の中で、年収が199万以下の世帯主は全体の9.53%と少ないのです。年収299万以下まで対象を広げてみても、最低賃金で働いている労働者全体の14.91%にしかなりません。相対的貧困層が必ずしも最低賃金以下で働いているわけではないということになり、最低賃金の上昇が貧困対策の最善策とは言い切れないことになります。不思議な感じがします。
もっとも、対象とするデータが1982~2002年の就業構造基本調査ですから、17年もたてば、状況は大きく変わっているのではないかという意見もあるかもしれません。
そこで2017年に発表された大阪大学の明坂・伊藤・大竹論文に着目してみました。こちらは1992~2012年の就業構造基本調査を用いています。しかし、それでも「2012年時点では最低賃金労働者の多数派は貧困世帯に属していない」と指摘されています。
これらの結果から、多くの貧困世帯は我々が普通に考える「働いているのに貧しい(だから賃金あげろ)」ではなく、「そもそも働けなくて貧しい」という世帯が大半の可能性が考えられます。もちろん最低賃金近辺で暮らすこと自体は大変だと思いますが、「貧困から抜け出させろ!」と言われると、ゴメン、あなたよりも貧しい人がいるかもしれないから、先にその方たちを……と思うのです。その人たちがどんな状況なのかが分かっていないのです。それを調べる必要があります。最低賃金に関する議論をする際には、こうした問題意識も大事だと私は思います。
最低賃金上昇によるデメリットが起きない不思議
最低賃金の議論では、前述した話とは別の議論がよく持ち出されます。最低賃金が上昇すると、利益が減って、経営難に陥る中小企業が現れ、倒産する可能性が高まる。これによって、失業率が高まり、結局労働者の不利益になるというものです。これは最低賃金上昇のデメリットとしてよく語られています。実際、韓国では最低賃金を2018年に16.4%、19年に10.9%上げた結果、失業率は上昇しリーマン・ショック期に近い4.4%まで悪化しました。
前述の川口・森論文でも最低賃金上昇の負の側面として「10代男性労働者や中年既婚女性の雇用を少し減少させる」と分析しました。明坂・伊藤・大竹論文では最低賃金が上昇すると「10代男性労働者の就業率が低下し、50代以上労働者の雇用就業率は低下して、自営業・内職就業率が上昇する」としました。
これを言い換えると、最低賃金が上がると、(1)一度も働いたことのない若い人たちの採用を雇用主側がちゅうちょする、(2)職に就いている50歳以上の人たちはリストラの対象となりやすく、そうなった場合、条件が悪くなっても就業形態を変えて働こうとする、ということになります。
しかし現実には、日本の最低賃金は上昇しているのに、高卒の就職率は変化はありません。この連載の第5回「世界で始まった新“失業率”統計。日本は貢献できるか」でも少し触れましたが女性の「M字カーブ」も少しずつ改善しています。両論文の分析にあるようなデメリットが表れていないのです。
当初立てた予測(forecast)とは違う結果が表れているのですが、いったい何が起きているのでしょうか?
予測が外れること自体は、データ分析の世界ではよくある話です。今の数字を元に予測を立てる場合、「今の延長線上に未来がある」ことを前提としています。したがって、当初想定されなかった大きな変化が起きると予測は外れます。
こうした予測外れをもたらす 「大きな変化」の1つとして考えられるのが「人手不足」の深刻さです。背に腹は代えられず、賃金が上がっても労働者を雇わざるを得ない。その結果、就業率を強く押し上げている可能性が考えられます。
ただし、労働市場が競争状態にない場合、人手不足だったとしても最低賃金ギリギリで雇用されてしまう可能性があります。このことが分かりやすい例が最低賃金がほぼ同じ愛媛県と青森県の比較です。
以下の図は、中央最低賃金審議会に提出された賃金分布に関する資料(短時間労働者の時間当たり賃金分布)からの抜粋です。分布データは「平成30年賃金構造基本統計調査特別集計」を元にしています。グラフ内に記載されている円表示は平成29年度最低賃金額です。
分布を見ると、愛媛県の最頻値は800~809円であり、分布の山が最低賃金よりも高いことが分かります。一方、青森県の最頻値は最低賃金ギリギリの730~739円を指しています。
最低賃金よりも高い時間給が出る会社で働けるならば、大勢の人がその選択肢を取るでしょう。そうではなく、分布の山が最低賃金に集まるということは、経営者に「他の会社より良い条件を出さないと人が集まらない」というプレッシャーがあまりないということです。労働市場が競争市場になっていないと、こうしたことが起きます。
このような状況においては政府が最低賃金を上げるという選択肢が極めて有効だと言えるでしょう。最低賃金を上げるとしても、どのような場合に効果を上げるのかという議論も大切なのです。
最低賃金上昇の影響を分析できる実証研究環境を
最低賃金を上げると「tカ月後」には貧困率が何%下降する、失業率が何%上昇する。このような数的仮説を導き出すには、統計的因果推論(変数間の因果関係をデータで明らかにする方法)の活用が欠かせません。
本当に最低賃金が影響しているのか、実際は他の影響があるのか、それが分からなければ、私たちは雰囲気で政策を立案していることになります。
しかし、それらは都道府県ごとに大きく違う労働環境の差異を細かく確認しながら分析しなければなりません。それに対して現在の研究環境は適切と言えるでしょうか?
これまで論文で参照されてきた就業構造基本調査は集計済みのデータに限られていました。世帯単位や事業所単位といった集計する前の「個票」は、研究のためであっても閲覧できなかったのです。川口・森論文は回答者ごとの個票データの利用を特別に認められた点が珍しく、非常に有意義だと評価されています。
研究者による効果のある実証研究実現のためには、統計データの活用は欠かせません。そうした背景もあって、18年4月、総務省統計局・独立行政法人統計センターは、和歌山県に個票データを提供する統計データ利活用センターを開設しました。
19年5月には改正統計法が施行され、情報保護を前提に、個票データの学術研究などへの利用が可能となりました。ようやく研究者が様々な公共政策の効果を、今までより気軽に、かつディープに分析できる基盤が整ってきたと言えます。
今すぐには難しいかもしれませんが、20年代前半には最低賃金と貧困、失業の因果関係がある程度見えてくるのではないかと期待しています。
この記事はシリーズ「データから“真実”を読み解くスキル」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
Powered by リゾーム?