2019年1月に世に出た本が話題になっている。『天才を殺す凡人』――。組織の中でいかに「天才」が殺されていくのか、つまりは人間の創造性がなぜ組織で生かされないのかというメカニズムを説き明かしたビジネス書だ。
この本ではタレントマネジメントを3つの才能、「創造性」「再現性」「共感性」と定義し、それぞれを擬人化させている。それぞれの才能が複雑に絡み合って、企業の中で⽣まれつつある「イノベーション」が殺されてしまうことがある。では「才能」を殺す組織、⽣かす組織とはどんなものなのか。
本連載では北野氏が、幅広い業界のキーパーソンと対談。組織やチーム、そして人間に宿る「才能」を生かす方法を探る。
連載2回目のゲストとして登場するのは為末大氏。陸上トラック種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得。男子400メートルハードルの日本記録保持者でもある。残酷なまでに「才能」の影響が大きいスポーツの世界に身を置いてきた為末氏にとって、「才能」とは一体どういうものなのか。それを踏まえて「才能を殺す組織」と「才能を生かす組織」とは。3回にわたって北野氏と語り合う。対談前編(「天才は触らない、秀才は型をはめる。企業が個人の才能を伸ばすには」)では、才能を生かす環境と殺す環境について為末氏が語った。中編ではそもそも才能とは何か、そしてそれを発揮するためには何が必要なのかを語り合った。
(構成/宮本 恵理子)
北野唯我氏(左)と為末大氏(撮影/竹井 俊晴、ほかも同じ)
北野:対談の前編では、為末さんに才能を生かす環境と殺す環境について伺いました(詳細は、「天才は触らない、秀才は型をはめる。企業が個人の才能を伸ばすには」)。ここで、そもそもの質問になりますが、為末さんは「才能」を信じていますか。
為末:もちろん。スポーツの世界は、明確に才能が存在します。ボルトの走りを見て、「才能がない」と言う人はいないでしょう。ただしスポーツにおける才能をビジネスにおけるそれと同義で語っていいのかは、分かりません。
北野:「ビジネスの分野で才能は本当に必要なのか」ということも、最近よく考えるんです。
野球選手になる夢を諦めて起業したある経営者が、「ビジネス分野でお金を稼ぐことは、才能を持たない人が再現性の高い世界で社会に影響を持つことだ」と言っていて、一理あるかもしれないな、と思ったんです。どう思いますか。
為末:ビジネス界が特有だと思うのは、ピボット(方向転換)の自由度がかなり高い点ですよね。スポーツ界では、ある分野で才能を育てたあと、他分野に移るのはなかなか難しい。陸上のハードル競技を10年やったあとで、野球のピッチャーに転向して、同じだけの結果を出すのは不可能に近いですよね。
でも、ビジネスの場合はかなり広い範囲でピボットが許されている。だからこそ、“場選びのセンス”が問われるし、いろいろチャレンジしてみたほうがいいと思いますね。
さらに言えば、自己変革に対する心理的ハードルはできるだけ下げたほうがいいですね。自分が変わることは、過去の自分を否定することでもある。だからプライドが邪魔して滞るというパターンは少なくありません。
北野:自己変革を自分で止めてしまう、ということですか。それはどういう構造で起きてしまうのでしょう。
陸上選手になれたのはハードルが存在したから
為末:突きつめると、結局は「どこまで到達したいか」ということなのでしょうね。「どこまでも高みに行きたい」と考える人以外はみんな、途中で幸せが訪れると、「ここまででいいや」と満足する。
「ずっと変革をし続ける」というストイックな修行僧のような生き方を選びたい人もいれば、それを選びたくない人もいるんです。「変わりたい」と言いながらもなかなか変わろうとしない人は、本心ではそれを望んでいないのかもしれない。
これはビジネス界における組織と個人の関係に近いかもしれないけれど、マネジメント事務所に所属するアスリートの場合、新しいチャレンジを始めようとすると、じわりとストップがかかることがあるんです。それまで構築したブランドを毀損(きそん)するリスクを心配されてしまうから。
それで、せっかく自己変革するチャンスを失って、選手の市場価値が目減りしてしまうケースは実際にあると思う。
活躍する分野を変えながら、ずっと第一線で活躍している人は、リスクを取って自分で自分のブランドを壊して、もう一度つくるということを繰り返している気がします。その勇気を持ち続けるのは、ハードではあるけれど、成長には欠かせない。
北野:最近、もし手元に1000億円あったら何がしたいか、と考えるんです。僕の場合は多分、ピクサーのような映画スタジオをつくると思うんです。『トイ・ストーリー』やディズニー映画のような魅力的な物語を製作して、物語の力で、ミッキー・マウスのような世界中の人を幸せにするキャラクターに、命を吹き込みたい。そういうふうに自分の才能を使えたら最高だなと思うんです。
つまり「1000億円があったら何がしたいか」と考えてみると、その答えの中に自分が大事にしたい才能を見つけられるかもしれないな、と。
例えば、1000億円あってもなお「もっと価値のある、何か新しいものを生み出したい」と思うなら、それはあなたの中に天才性、創造性が眠っているということなんですよね。
為末:なるほどね。僕を振り返って、「なぜ陸上選手になれたのか」と考えてみると、単純に「ハードルが存在したから」という理由がすごく大きいと思います。誰かがトラックに障害物を置いてくれたから何とかなったけれど(笑)、何もなければ相当厳しかったと思う。
その意味では、「自分を表現できる装置が、既に世の中に生まれているか」はすごく大事ですよね。
デジタル文化が発達して、コミュニケーションが世界中でフラット化している今の時代は、たくさんの人がいろんな才能に目覚めやすい時代である。
と同時に、「誰でもいきなり世界選手権」になっちゃう時代です。日本にいると言語の障壁があることで歯止めが利いているけれど、もし全世界に同時翻訳される環境になったら、中国の天才ブロガーやアメリカの一流小説家と同じ土俵で戦わないといけなくなる。最初からそれはつらいですよね。
「美しい技能のまま保存したい」
北野:たしかにそれはきついですね。いきなり異次元のライバルが現れる、みたいな。
為末:まずは県大会から始めたいですよね(笑)。いきなりボルトと一緒に走ったら、諦める人が続出するでしょう。スポーツの世界でよく言われる“有能感”が育たないから。
有能感とは、ストレートな意味だと「能力を有している感覚」のこと。ただし「他者に比べて優れている」感覚というよりも、「自分が思った通りにできている」という感覚なんです。
ハードルをこういうふうに跳びたい、と思ったままに跳べること。僕は、ハードルでは有能感を持てたけれど、テニスではまったくダメで、もどかしいんです。
才能というのは、それを自分でコントロールできる技能が育つこととセットなんでしょうね。表現する技能がなければ才能が生かされるところまで到達しません。
北野くんの中にも、もともと物語を紡ぎ出す才能はあったのだと思うけれど、それを表現するための技能としての言語化能力を修練したから、才能が開花したのでしょうね。
北野:以前、「成果を出せる天才と、残念な天才の違いは何ですか」と質問されたことがあって、「表現する武器を磨く努力をしたかどうかだと思います」と答えたんです。
もしもベートーベンやモーツァルトがピアノのない時代に生まれていたら、名曲は生まれなかったのか。きっとバイオリンか何か、違う楽器を弾くなり、あるいは小説という手法を使ってやはり作品は生み出していたとは思うんです。いずれにしても、表現する武器の鍛錬は膨大にしていたはずです。
為末:面白いね。あと「幸福と才能の関係」も興味深いですね。
例えば、ミュージシャンが優れた才能があることと、幸福であることの相関は、かなり薄いと思っている人は多いんじゃないかな。行きすぎた才能は、多くのものを背負わされてしまう。
北野:残念ながら死を選んでしまう人もいますよね。為末さんは、周りから背負わされることで、現役時代に苦しんだことはないですか。
為末:僕の場合は、そこまで追い込まれていなかったと思います。外から見ると十分に評価されているように見えたかもしれない。けれど、自分自身は「世界一という頂点は取れていない」という気持ちでいましたから。
ただ、「美しい技能のまま保存したい」という欲求はあったと思う。年齢とともにどうしても衰えてしまうわけだけれど。
北野:それは僕も最近、抱えているテーマです。ビジネスパーソンの感覚だと、「あと2、3作を書くのが限界じゃないか」と感じるけれど、物語の作り手としては「いや、10作書き続けると決めた時点で勝ちじゃないか」と反発してみたり。長く活躍できる人の共通点は何だと思いますか。
為末:1つは「それしかない」と思い込むことかもしれませんね。僕の場合も、陸上以外で発揮できる力がないと思っていたから、あれだけ長く没頭できていたと思う。
「評価されなくても構わない。今の努力が報われなくてもいいから、これを続ける」と、どれくらい思うことができるかも、とても大切です。
(対談後編は、2019年7月19日公開予定)
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