中国とは「方法論な存在」なのか

 多様な諸文明が混在するアジアには、世界的に普遍化する文明が存在しないのみならず、アジアで普遍化する文明も存在しないと言ってよい。それは、「アジア文明対話」において、習近平国家主席がアジア文明の多様性を強調し、諸文明間の交流と相互尊重を提唱したことで、中国も認めたことになる。

 だとすれば、「アジア文明」とは、アジア諸文明の集合体を意味するにすぎず、それら諸文明の中のどの文明が中心で、どの文明がローカルかの議論も、また、どの文化や価値が普遍的で、どの文化や価値が特殊かの議論も存在し得ないことになる。

 中国の哲学者、趙汀陽は、「中国が問題になるとき、その方法論的な存在の方が、その価値よりも中国の本質を意味している」と述べて、「方法としての中国」を提案する。それは、日本の中国文学者で評論家の竹内好の「方法としてのアジア」を想起させる。

 竹内は、「方法としてのアジア」について、こう述べている。

 「西欧的な優れた文化価値をこちらから変革する、この文化的な巻き返し、あるいは価値上の巻き返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題となっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。…それはなにかというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないか」(1961年)

 習主席の提唱する「アジア運命共同体」も「人類運命共同体」も、そこで最も重視され、強調されているのは、アジア的価値や普遍的価値ではなく、共同発展であり、ウィン・ウィンである。それはまさに、趙汀陽の言う「方法としての中国」である。だとすれば、「アジア運命共同体」も「人類運命共同体」も新たな国際秩序と言えるだけの内実(価値)を備えているとは言えない。

 習主席は、「アジア文明対話」の演説の中で、中国がマルクス主義思想などを西側から学んだことを挙げたが、マルクス主義は中国の現実と結合する形で「中国化」されることで「中国の特色ある社会主義」として発展してきた。それは、西側思想を取り入れる過程で中国的価値によって変質したのか、それとも、中国的なるものと矛盾しないような取り入れ方をするという意味での「方法」論なのか、いずれにせよ、そこから中国的価値が明らかになるわけではない。

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