前回、国際秩序は力の体系であり、価値の体系でもあると述べた(「国際秩序維持のためのWTO改革と中国の役割とは」を参照)。アジアの秩序がパワー・シフトによって変化していくとすれば、変化の先にある新秩序を支える価値とは何であろうか。そもそも、国際秩序の要素となる普遍的価値がアジアに存在するのだろうか。あるとすれば、それは超大国化する中国の価値とどう関係するのか。中国が力の体系を変えるなら、新たな秩序は中国の価値を反映することになるのだろうか。

 国際秩序が変動する時代、価値をめぐる議論が重要になっている。

 シリーズ最後の今回は、その点について論じてみよう。

5月の「アジア文明対話」では、アジア文明の多様性を示す関連イベントも開かれた(写真:共同通信)
5月の「アジア文明対話」では、アジア文明の多様性を示す関連イベントも開かれた(写真:共同通信)

 そもそも多様なアジアは、アジアそのものとして一つであったのではない。岡倉天心が「東洋の目覚め」で述べた通り、アジアは「西洋への抵抗において」一つであった。歴史的に「アジア主義」という思想にも、そうした相対化されたアジア的属性が埋め込まれていた。

 「東アジアの奇跡」を世界が称賛した時も、アジア通貨危機が東アジアへの評価を逆転させた際も、欧米では東アジアの価値や文化が盛んに研究され、議論されたが、そこでは「普遍性」よりも「特殊性」が取り上げられた。

 ドイツの哲学者で第1次世界大戦終結後に『西洋の没落』を著したシュペングラーは、西洋史が世界史の普遍性を体現しているのではなく、世界史は西洋史にはない幾多の諸文明の歴史からなっていると指摘した。シュペングラーの帝国主義への警鐘によらずとも、西洋中心史観を克服しようとの努力は、アジア諸国の独立やアイデンティティーの追求において常に影のように付き従ってきた。

 世界経済の中心が西から東へとシフトするアジアの時代を迎えた21世紀、復権したアジアは地域性と普遍性を両立させた「開かれたアジア主義」を持ち得る時代にいる。問題は、アジアは一つかとの天心の思索をたどるまでもなく、アジアが多様であるとの状況をどう認識すべきなのかという問いかけにある。

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