戦争が終わり、中国から引き上げてきてしばらくした頃、たまたま入った映画館で流れていたニュース映画で、私が北京に渡ったのと同じ年の10月の雨の降る日、繰り上げ卒業した男子大学生たちが全部兵隊になって行進する映像が流れてきました。ああ、あのとき同い年の男の子たちがこんなにたくさん無理やり兵隊にされたのか。映画館で1人、泣いたのを覚えています。

戦時中の北京で、瀬戸内さんはどんな新婚生活を?

 北京に渡って私はすぐに身ごもりまして、娘を産みました。北京大学で研究を続けていた夫は当時32歳。さすがにもう招集されないだろう、と思っていたら、なんと赤紙が来ちゃった。しかも、「日本刀と飯ごうは持参しろ」っていうの。ひどいでしょ。国は何にもしてくれないわけ。しょうがないから有り金はたいて、日本刀と飯ごうを買い揃えて夫に渡して、そのまま出征しました。どこに行ったかはまったく知らされずに。

 娘と2人残された私は、さてどうしようか、と呆然としていました。すると、お手伝いに来ていたアマさんが、「働きに行きなさい!」って背中を押すのよ。中国では「アマ」というお手伝いさんを雇うのが一般家庭でも当たり前で、うちに来ていたのは70歳くらいのおばあちゃんのアマさん。とってもいい人で、「あたしはもう年寄りだから、孫に手伝ってもらうわ」と16歳のチュンニンちゃんがうちの赤ん坊の面倒をみてくれるようになった。すると「あなたはまだ若くて教養がある。食べ物は私の田舎から送らせるから心配なし。赤ちゃんはチュンニンに任せて一日も早く働きにいきなさい!」って言うわけです。

中国で迎えた終戦

中国の方とは仲良しだったんですか。

 ええ、とっても。夫は中国の音楽の研究者だったし、私もこんな性格でしたから。中国の人たちと戦時中仲良くしていたのは、あとでとっても役に立つことになります。

 アマさんに背中を押された私は、じゃあ、働きに行こう、と思って、街に出て仕事を探しました。でも、20歳過ぎの日本人の女が働く場所なんかなかなか見つかりません。夏の暑い盛りに、へとへとになりながら毎日職探しをしていたら、日本人の運送屋さんが「うちで働くかい?」って声をかけてくれました。

 すぐにこの運送屋さんで働くことに決めて、出勤したら店番を任されました。
 お店ではラジオが流しっぱなしになっていました。

 すると、誰かが演説しているのが聴こえる。電波が悪くって、ざあざあいっていて、ほとんど聞こえない。すると、運送屋のご主人がわっと泣き始めた。

「日本が負けた。戦争に負けた」って泣く。
 8月15日の、昭和天皇の玉音放送だったんです。

 私はすぐに無我夢中で店を飛び出して、そのまま家に走って帰って赤ん坊を抱きしめました。働いて半日もたってないときのことです。あ、半日働いたのに、結局給料はいただかなかったわね。

すごいタイミングでしたね。

 そのあと、夫がひょっこり戻ってきました。その彼が、「もう日本に戻りたくない、中国人になってこっちで暮らそう」っていうので、家族3人終戦後も北京にとどまっていました。もちろん非合法です。でも、結局見つかっちゃって強制送還に近いかたちで日本に戻りました。幸いなことに、戦時中から私たちは中国の人たちととっても仲良しだったから、戦争が終わってからも、幸いにして危ない目に遭うことはありませんでした。

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