「近代化仮説」という理論があります。経済が変われば政治も変わる、という説です。しかし、現実は全くそうではない。アフリカ諸国、中国、シンガポール、サウジアラビア、ロシアなどどこも経済は高成長ですが、政治システムは不変です。ただこうした国々はまだ、創造的破壊が必要ではない段階にある。
キャッチアップ型は結局は長続きしない
中国経済について、共著書で「今の権威主義的な政治体制が続けばやがて停滞する」と予測しています。
中国がこれまで発展したのは「技術キャッチアップ型経済」、すなわち他国をモデルにしてエリートが牽引して追いつく「収奪的な成長」だったからです。まだしばらくの間は成長すると思いますが、1950年代、60年代に順調に成長していたラテンアメリカ諸国で、70年代に成長が止まったのと似たような未来を思い浮かべます。中国はまだ低中所得層中心の国ですし、技術的キャッチアップの余地も当面まだまだありますが、それが尽きた時、創造的破壊、技術進歩が起こるオープンな市場に移れるのかどうかがカギです。
政治がより幅広く多様な人々の手で運営されるようになれば、成長が続く可能性は高いでしょう。中国は準全員参加型の政治体制に移行しようとしている最中ですね。制度に必要なのは、土地の私的所有権が認められること、適切な法規制が機能すること、そして適切な税制などでしょう。つまりは創造的破壊を起こすためのインセンティブが制度的に重要だということです。
官僚や銀行は、先進国の収奪的なエリート層と言えるでしょうか。
そうですね。銀行や官僚は収奪的になりやすいと言えますね。以前はそうではなかったのですが、近年は自分たちの分け前を増やすために政治力を行使しています。そして公的部門は多くの国で強い実権を握り、かつ肥大化しており、政治に守られています。銀行は20世紀を通じて国家繁栄に大きな役割を果たしてきましたが、政治力が増し、リスクを必要以上に取るようになりました。
日本のことは詳しくありませんが、たとえば米国において、国の制度がもっと強力で、銀行がロビー活動などを通じた影響力の行使ができない状況だとしたら、米国における銀行の収奪的な役割を減じる効果があると思いますね。とはいえ、先進国における金融業界は多くの業界の1つに過ぎません。カリブ海の西インド諸島内にある立憲君主制国家バルバドスのように、一握りの家族が政治、軍隊、司法、経済を握っているような社会とは明らかに違います。
しかしやはり、先進国でもどうしても既得権は生まれていきますね。資本主義のもとで、本当に全員参加の発展は可能なのでしょうか。格差はなくなるのでしょうか。
そもそも私は「資本主義」という言葉があまり好きではありません。日本も米国もグアテマラも資本主義です。しかし、3者とも全く違う「生き物」です。グアテマラは残虐な独裁社会で、人口の半分以上が抑圧されている国です。市場主義を標榜してはいますが、市場は操作されています。政治権力が収奪的な一部の層に集中し、人口の半分を抑圧的に支配しているというわけです。
ですから、あなたの質問をこう言い換えましょう。「全員参加型の市場経済は格差なしで存在し得るのか、あるいは平等であっても限界があるのか?」と。
経済的な格差は、人々が成長するためのインセンティブなので、ある程度は社会に必要です。全員のニーズがすべて満たされるという共産主義的な発想は、神話にすぎません。それに、人は報われたい生き物です。すべての報酬がお金である必要はありませんが、お金が重要な時もある。
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