前に書いたように、高校時代、ぼくは新左翼の活動に関わっていたが、三年の秋ごろには、自分の思考や行動に問題を感じていた(繰り返すが、ぼくは当時の運動について論評する資格も意欲もない。ここで問題視しているのは、あくまで、当時のぼく個人の思考や行動についてである)。

このままではどうにもならない、どうしたらいいのかと、ぼくは迷った。しかし、もともと、ぼくなりに考えに考え抜いて始めたことだから、簡単には方向転換できない。「いっそのこと、このまま、行くところまで行ってしまおう」というヤケクソな気持ちにもなっていた。

そんなときに生活が急変し、気がつくと、ぼくは建設現場にいた。そして、鉄パイプを運んだり、一輪車にスコップで土を入れて運んだりといった慣れない作業をして疲れ果てているのだった。

風景が変わる、明るい建設現場

数か月にわたる我が家のドタバタ騒ぎの後にたどり着いた建設現場であるが、その風景は、意外なことに、とても明るいものだった。

季節が冬だったので、単純に、空が青く、雲が少なかった、ということもある。

いっしょに働いていた人たちが、みんな親切で優しかった、ということもある。

しかし、それだけではないと思う。

理由はわからないが、とにかくぼくは、自分が、それまでとは違うどこか、自分が想像もしたことのない土地に立っていることに気づいたのである。

見回せば、風景が一変していた。

それまでぼくの視野の中心にあって展望を妨げていた何かが、すっかり小さくなって、視界の端に退いていた。
そして、視線の先には、寂しいといえば寂しい、しかし「明るく開けている」とも言えそうな空間が、どこまでもどこまでも広がっていた。

ぼくはもう、それまでの思考の延長で考えてはいなかった。それを外から眺めるようにして、検証していた。そうして、新左翼の活動から離れたのだった。

未知の地平へ誘う思考法

ぼくが『小論理学』を読んだのは、そんなときである。
当時のぼくの理解では「弁証法」とは、単なる三項図式(正・反・合)ではなかった。

展望が見えないとき、先が見えないときに、ぼくたちは「もう限界だ」と思う。破滅の予感に恐怖したり、諦めたりする。
しかし、弁証法は、そんな態度を許さない。

「もう限界だ」と思うのは、その地平の限界に過ぎない。
今、ここにいるときは見えないが、この地平の果て、その限界の先には、必ず新しい別の世界がある。

今、この、どうしようもない「ここ」から、別の、より広い、より高い地平に行くときが必ず来る。

そこへジャンプすれば、今は見えていないものが見えるようになって、こんな問題は解決できるようになる。

新しい発想は、今の延長上ではなく、まったく新しい地平、予想外の新展望の上で生まれてくるのだ。

だから今は、全力で、行けるところまで行け。
そうすれば、この地平の果てで、さらに、次の地平へジャンプできるはずだ!

弁証法とは、そのように誘う思考法である。

これが、土木作業でへろへろになりながら、高校生のぼくが理解した「弁証法」だった。

(文・イラスト 岡 敦)

引用は、

ヘーゲル『小論理学』(全二巻)
松村一人訳、岩波文庫、1978年

に拠りました。

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