あるいは、「成」とは「変化」のことかと考えてみる。
個人でも集団でも、あるいは市場でもいい。それらは常に変化している。
「それは、こういうものだ」と言葉でキッチリ定義したくなるが、言ったとたんに古くなって、実態はもう別なものになっているだろう。

つまり、物事はすべて、こういうもので「ある」と言えそうだけれど、言ったときには既にそうでは「ない」、それが物事はすべて「変化」しているということだよ、ということだろうか。

……こんなふうに自分なりに解釈しながら読むことは、たとえ学問的には間違っていたとしても、自分の成長にはとても役立つと思う。旅行のガイドブックを読んだだけでその土地を知ったつもりになるよりも、道に迷いながら自分の足で歩いたほうが、はるかによくその土地に馴染み、通じることができる。それと同じだ。たとえ、日が暮れたり、天気が崩れたりして、目的地までたどり着けなかったとしても、だ。

とりあえず出発して、後から反省する方法

また、そのような読み方こそ、「弁証法的」だとも言える。

弁証法とは、絶対に確実なことをレンガのようにひとつひとつ積み重ねていく方法ではない。

とりあえず自分の目の前の「ここ」から出発する。そして、後でどんどん修正していく。つまり、改良版から改良版へと移っていく方法だ。今やっていることは「常に暫定的(とりあえず)」なのである。

この地平の限界から、未知の地平へ出るのだ

逆に言えば、弁証法は、今ここで見ているもの、考えていることを絶対化するな、と戒めている。

上のいくつかの例で見たように、弁証法は、(1)→(2)→(3)と進んでいくが、その各段階は、まったく別なステージ、異なった地平である。

どの地平(ステージ)にいるときも、この地平に限界があるとは思えない。
次の地平がどんな地平なのかと想像することもできないし、そもそも、次の地平なるものがあるということさえ知らずにいる。

だが、それでも必ず、この地平には終わりがあり、新しい地平に進むときがやって来る。

そのとき、それまで視野いっぱいに広がっていた世界が、世界の一要素に過ぎなくなる。
自分が絶対視していた価値や意味が、実は小さな世界内だけでしか通用しない価値や意味だったと思い知る。

自分の視界は、実は閉ざされていたのだ。どこまでも広がる空だと思って見ていたのに、実は厚い雲を見ていただけだった。その雲が切れて、今、青空を見るのである。

ぼくが『小論理学』を読んだころ

ぼくが『小論理学』を読んだのは、高校時代の終わりの冬だ。

高三の秋、ぼくの家は破産し、両親は離婚した。
父は、その当時に個人で億円単位の負債を抱えてしまったのだ。
父は、債権者と警察の追及を逃れて姿を消した。以後は音信不通で生死もわからなくなる。

既に大学生になっていた兄は、奨学金とバイトを頼りに一人暮らしを始めた。
母とぼくは、債権者から逃れるため、親戚の家に寝泊まりするようになった。しかし、そう長く迷惑はかけられない。結局、冬には東京近郊の飯場で暮らすことになった。
ぼくは、高校を休んで、女子高の体育館建設現場で働いた。

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