このように、(2)の迷いの時期を経て(1)から(3)にグレードアップすることを「弁証法的発展」と言う。

弁証法的発展をする場合は、(2)の迷いの時期も決してムダではないことになる。

実は人間は、無意識に弁証法的な考え方をしているのだ

ヘーゲルは、次のように言う。

われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。

実際、人生のさまざまな局面で、われわれは弁証法的な考え方をしている。

●例C

(1) 新しい仕事を始める(あるいは、新しい技術を導入する)。最初はノンキに、うまく行くと思い込んでいる。
(2) トラブル発生。批判され、新しく始めたことは間違いだったのではないかと迷いが生じる。
(3) 批判を反映して、改善する。迷いは消えて、やっぱり正しかったと確信する。

上のような経験は誰にでもある。そして、「苦しい時期をがんばって耐えれば、以前よりも強くなる」「トラブルは、きちんと対応すれば、アドバイスや応援をもらったのと同じぐらい有益だ」といった教訓を得る。いずれも「弁証法的」な表現である。

想像以上に手強いけれど、『小論理学』を読もう

弁証法を知りたいなら、ヘーゲルの『小論理学』を読むべきだ。

と言っても、この本は「手頃な入門書」などとは間違っても言えない。タイトルに「小」がついているけれど、岩波文庫版でも上下二冊に分かれた、量も内容もかなり手応えのある本だ。

それに、この本を題名どおりの論理学の本だと思うのも間違いだ。

そもそもヘーゲルには、「人間は世界を理性的にとらえるものだ」という前提がある。
つまり、「論理=『理性の働き方』=世界認識の仕方=世界の仕組み」なのである。
だから、ヘーゲルの論理学は、認識論でもあり、存在論でもある、ということになる。

想像するだけでも読みにくそうな本だ。
そして、実際に手に取れば、想像など、まだまだ甘かったことがわかる。

だから、一読してすべてを理解しようなどと力まず、まずは「弁証法」とはどんなものか、そのだいたいのイメージがつかめればいいと割り切って、軽く眺めてみるといいと思う。

そのぐらいの読み方をしても、この本から得られるものは実に多いのだ。

「成は、有と無の統一」--日が暮れるまで考えよう。

この本がどれほどワケがわからないか、一例を挙げよう。

 無はこのように直接的なもの、自分自身に等しいものであるから、逆にまた有と同じものである。したがって有ならびに無の真理は両者の統一であり、この統一が成(Werden)である。

「成とは、有と無の統一である」などと書いてある。
いったい何を言おうとしているのだろうか。
自分で具体例を考えない限り、理解のしようがない。

そこで、「オトナに成る」という例を考えてみる。
今、オトナで「ある」ということは、もう子どもでは「ない」ということだ。
こういう「ある」と「ない」の統一が「成る」ということの意味、なのだろうか。

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