戒名ひとつにしても…
先の見えない辻説法を続ける赤澤さんに救いの手を差し伸べたのは、僧侶仲間だった。自分たちの寺の葬儀や法事の手伝いをしないか、と誘ってくれたのだ。
赤澤さんに千載一遇のチャンスがやってきた。赤澤さんには、あたためていた腹案があった。それは「記憶に残る仏事」をすることだった。
葬儀には、喪家や参列者の他にも葬儀業者や花屋、返礼品業者など様々な人が参加している。
「葬儀に関わるすべての人の心を打つ儀式をしようと思い、研究していました。葬儀にひと手間かけることで、とても感動的なものになると考えたのです。分かりやすいたとえで言えば、納豆を人に提供する時、パックのまま出すのと、美しい器に盛り直してネギを添えて出すのとでは、全く別のものになりますよね。要は、それと同じことです」(赤澤さん)
それは、葬儀会場で喪家と対面するところから始まる。控え室で沈香(じんこう)を焚いて待ち受ける。戒名の授与の際には金襴の敷物を恭しく広げ、その場で墨書きして披露する。戒名の由来を文書にして添え、丁寧に説明する。戒名の授与ひとつとっても、厳かな空気がその場に流れる。
演出的、と言えばそうかもしれない。しかし喪家や関係者の目には、そうした手の込んだ「仕掛け」が新鮮に映る。
なぜなら、これまでの寺檀関係者による葬儀が、マンネリとなっていたからだ。僧侶も檀家も、仏事を「こなしている」だけだった。だから「高いお布施を取って、大した葬式じゃなかった」と不満を口にする遺族が多い。「葬式仏教」と揶揄される原因も寺檀関係のマンネリズムにある。
「仏事の細部にこそ、仏教精神が宿ると考えたのです。葬式や仏事に熱心な僧侶には批判が集まりがちですが、私は仏事こそが一般社会と僧侶をつなぐ大切な接点だと考えています。『葬式坊主』と言われても、その場できちんと法を説けばよいことです」
葬儀が終われば、驚くような反応があった。
「こんなに感動した葬儀は初めてだ」「次の法要の際にもお願いしたい」「あなたの説法の続きが聞きたい」――。
以前、街頭演説では「怪しい宗教の人」として誰も相手にしてくれなかった赤澤さんだったが、国立市民の赤澤さんに対する見方は徐々に変わり始めた。法事で指名がかかることが増え、寺に足を運んでくれる人も現れた。現在、年間100人というペースで信徒が増えているというから、驚きだ。
宗からの助成金と銀行からの借入金、少しずつ貯まり始めたお布施を元手に賃貸を離れ、今の場所に新生「一妙寺」を開いたのは2014年の秋のことであった。

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