「通じない」なんて、傲慢だ
しかし、今は、こう思う。
こうしてときどき倒れながら生きていくのなら、それより、いっそ大失敗して、最後に一回、完全に倒れてしまったほうがマシだ。
どうせ通じない言葉でも、黙ったままでいるより、口にして、誤解されて、笑われたほうがマシだ。
頭に来て、ケンカして、傷つくほうがマシだ。
大人らしく苦笑いと愛想笑いで暮らしていくなら、大人げない馬鹿笑いと悔し泣きのほうがずっといい。
周囲に「いい人」と思われるより、「青臭い馬鹿」とさげすまれるほうが、ずっと燃えるだろう!
これがぼくの本当の望みだ。
どうせ通じない、と黙るのではなく、口にすること。
そうして、だから今、この連載でも、ぼくは恥知らずなことを思いっ切り書いている。
これで思いっ切りだって?
まだ、足りない。
もっと、もっと、だ。
びびる自分にそう言い聞かせて、目をつぶり、暴走車に乗った気分で書いている。
すると、どうだろう。
友人や編集者、そして読者のみなさんに、何かが通じているようではないか!
どうせ通じないと思って遠慮がちに話しては、「やっぱり通じなかった」と下を向いて呑み込んでいた言葉。
それが、ヤケクソになって思い切り書けば、通じるのだ。
いや、通じるだけではない、読んだ人たちは、同意したり、励ましたり、意見を述べたりしてくれる!
そうだ。
「他人に通じない」と決めつけるなんて、ぼくは傲慢だった。
人間が持っている共感したり手を繋いだりする可能性を軽んじていたのだ。
それに、「自分にはできない」などと思うのも、やっぱり全然、謙虚ではない。傲慢だ。
自分に何ができるかなんて、ぼくごときに判断できるはずはなかった。
デ・ゼッサントだって、そう。
自分はカトリック信者にはなれないと決めつけ、代替物でごまかそうとして、ついに体を壊す。そんな思いをするぐらいなら、やってみるべきだった。
実際、作者ユイスマンスだって、『さかしま』を書いた8年後、カトリックに改宗してトラピスト修道院に籠もっている。世間はもちろんびっくりして大騒ぎしたけれど、そんなところで遠慮してどうなるって言うんだ?
(文・イラスト 岡 敦)
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