※この記事は日経ビジネスオンラインに、2015年1月13日に掲載したものを転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。
今回は、私と同年代の人たちが、多かれ少なかれ“感じているコト”について書こうと思う。
めちゃくちゃ大雑把で、至極曖昧なテーマだが、要は人によって表現は変われど、根っこにある問題は共通しているという意味。
というわけで、さっそく大手企業に勤める女性が、感じている“コト”からお聞きください。
「いつまでも甘えたおばさん女の子でいる先輩を見てると、ああはなりたくないっていうか。石に齧りついても、自律したかっこいい女性になってやる、って思うんです」
彼女はこう切り出した。夫あり、子どもあり、職場では10名の部下を持つ、40代後半の女性である。
甘えたおばさん女の子――。
- 困ったときに、猫なで声をだす
- 都合が悪くなると、「よくわからな~い」とすっとぼける
- 決断を下さなきゃいけない場面にも関わらず、責任を放棄する
- いい年をして“女”を使う
「うわぁ、私も気をつけなきゃ!」と、我が身をただしたくなる態度を、彼女は「甘えたおばさん女の子」と表現した。同世代の私には、かなり刺激的で、胸をドンと突かれた言葉だった。
彼女は、私が定期的に情報交換をさせていただいている方で、付き合いはかれこれ10年以上になる。
出会った当時、課長だった彼女は、数年前に部長に昇進し、小学生だった一人息子も大学生になった。夫なし、子なし、組織なし、と、私は彼女とは全く異なる環境にいるわけだが、年齢が近いせいか、似たようなことに悩んだり、自信をなくしたりすることが、これまでも頻繁にあった。
その度に、「私だけじゃなかったんだ」とホッとしたり、勇気をもらったり。ときには解決の糸口を見いだしたりと、いわば“戦友”のようなもの。
そんな彼女からまたしても、「そうそう! そうなんだよね!」という話が飛び出したのである。
「つい数年前までは、部下をどう育てればいいのか? とか、現状を打破するにはどうしたらいいんだ? とか、自分の問題だけに追われていたの。今思えば、それって結構、楽だったなって。だって、仕事のことだけ考えてればいいんだもの。でも、最近は仕事も家庭もいろいろで。息子が一人暮らし始めたり、夫が関連会社に転籍になったり、親の具合が悪くなったりと、次から次へと問題がおきる」
「でもって、目の前には、まだまだ育ってもらわなきゃ困る部下が山ほどいて、日々決断を迫られ、自分もまだまだキャリアアップしなきゃだし……。カラダがいくつも必要な感じで。日々、悲鳴をあげてる(笑)」
「今までも、なんとか乗り越えてきたから、なんとかなるって思ってるんだけど、不安が全くないって言ったらウソになる。まぁ、そういう年回りなんだよね、きっと。だから1つひとつやっていくしかないなぁ~、って覚悟してるのね」
「ただね、ふと前を見ると、いつまでも甘えた“おばさん女の子”がいるわけですよ。ああはなりたくない。そういう先輩を見てると、石に齧りついても、自律した素敵な女性になるぞ!って。あんな風な年の重ね方だけはしたくないって、思うんだよね。……なぁ~んて、既に後輩から、そんな風に見られてたらショックだけど……。まぁ、そんなことはないだろうと、信じてがんばるしかない。お互いがんばろ~ね~」
こう彼女は明るく、笑い飛ばしたのである。
「こうなりたい!」より「ああはなりたくない」
今回、彼女の話を、“40代後半の誰もが遭遇する問題“として取り上げたのは、私自身が似たような状況に置かれているからに他ならない。
人生を問い直し再構築する分岐点とされる年齢にリアルになってみると、「こうなりたい!」という気持ちよりも、「ああはなりたくない」とアンチロールモデルばかりが思い出され、私自身、正直、戸惑っている。
“アンチロールモデルの脅威”とでもいうのだろうか。
「それって男性が、ごますって出世していく先輩を見て、あんな“ごますり男”になりたくない! って思うのと一緒?」
はい、そのとおりです。
「いい給料もらって、口だけ動かして、自分じゃ働かない、“使えないおじさん”になりたくないな! というのと同じ」
ええ、それも同じです。
つまり、「ああなりたい」ではなく、「ああなりたくない」人。そんな過去に遭遇した“先輩たちの醜い言動“ばかりが、思い出されてしまうのである。
醜いなんて、言い過ぎかもしれない。でも、私の場合には……、
・年下の男性に甘えた声を出してすり寄ったり
・上司の男性のちょっとばかり曲がったネクタイを、まるで奥さんのように直したり
・気分次第で、部下たちを怒鳴りちらしたり
同じ女性として嫌悪感を抱いた、先輩女性たちの言動の数々が、まるでテレビのスイッチを押されたように、脳内テレビに映し出される。
その度に、「いいじゃな~い。これが楽な処世術よ~」という悪魔のささやきと、「ダメだ! 負けるな~! ああなったら終わりだ!」と必死で語りかける自分が格闘する。
で、今は、そう“今のところ”、後者の「ダメよダメダメ~(←既に古い感じがするけど)」的自分が勝っているのである(←と、信じている)。
ロールモデルが機能するのは若い世代
改めて説明するまでもないが、「ロールモデル」は、もともとはリーダーシップ研究で蓄積された知見から生まれた言葉。「上司の背中を見て、部下はのびる」というもので、日本の徒弟制度が原型とも言われている。
特に最近は、女性のキャリア意識向上に(この表現は個人的には好きではないが、今回はこれがテーマではないので、このまま使います)、ロールモデルが頻繁に取り上げられ、
「異業種や異性であっても、『ああなりたいなぁ』と思える人(=ロールモデル)を、意識的に見なさい。そして、ロールモデルを漠然と観察するのではなく、リーダーシップに関する何らかのモデルに基づきながら観察・考察し、分析すると、学び取るポイントが明確になる」というような教育が行われている。
「キャリアアップのためには、自分の観察できる範囲で印象的な人、自分よりも高いレベルのリーダーシップを発揮している人、学び取りたい行動ができている人を選定しなさい」と、リーダー研修教育でロールモデルがクローズアップされているのだ。
だが、ロールモデルが機能するのは、プレミドル世代まで。既にリーダーとして活躍しているミドル世代には、なぜかアンチロールモデルばかりが目につくようになる。かつて憧れた上司を思い出すことがあっても、自分の限界もわかるミドルたちは、「自分には無理」なんて気持ちにもなる。
喪失、変化、多重役割、体力や身体機能の衰え、社会的な限界の認知、時間的展望の狭まりなど、リアルミドルならではの、“はじめて”の出来事の数々に、うろたえ、戸惑い、リスクに敏感に反応する。
たとえば、親の変化だ。元気だと思っていた親が脳梗塞で、ある日突然、介護が必要になったり、100歳まで生きそうだと思っていた親が、「ちょっと胃が痛い」と病院に行ったらガンが見つかり、余命を宣告されたり。いつもどおり買い物に出かけた親が、「どこに帰っていいのかわからなくなった」と帰れなくなったり。「遂にきたか~」と、向き合わなくてはならない“変化”に直面する。
頭ではわかっていても心がついてこない。他人のことだと冷静になれる。自分のことになると混乱する。
40代の進むべき道の輪郭が見えてこない
その一方で、職場では淡々と時間が経過し、自分のやるべきこと、やらなければならないことが山積し、「もう一皮むけなければ、次がないぞ」と懸念と焦りを感じる日々が繰り返され……。
自分でも気がつかないうちに、あんな行動をとってしまうのではないか?
いや、既にとっていやしないか?
と、アンチロールモデルが脳裏をよぎる。
おまけに、彼女が「自律した素敵な女性になるぞ!」と言っていたように、「こうなりたい」自分は極めて抽象的。
「それまでの人生を問い直し、再構築する分岐点」で、進むべき道の輪郭が見えてこない。
以前、知り合いの編集者が、「50という年を目前にすると、何でも好きなことをやってしまえって気分になるんだよね。人生の逆算が始まるっていうのかな。やってみたかったクラシックギターを習って、この年で初めて合気道をやって……。あれこれやり出してちっとも整合性が取れないんだけど。もう、あれもこれもやってしまえ!と、やぶれかぶれな気分になるんだよ」と語っていたことがあったが、その気持ちが少しだけわかる。
アンチロールモデルを追っているだけでは未来はない
それは道の輪郭を自ら作るための行為だったんじゃないか、と。一見矛盾しているようだが、多次元的に起こる変化と向き合うために、新たな次元を増やすことで、正解を見つけようとしたのではないか、と。将来への足がかりとなる「自己概念」を見いだすために、だ。
そもそも人は誰しもが、深層心理の中に「自分自身に対するイメージ=自己概念(self-concept)」を持っていて、自己概念は、将来の行動や意志を左右し、その人自身についての新たな知識の獲得を方向づける一種の理論のような働きをする。
自己概念は、それまでの人生経験や周囲の言葉、教えなど、自分を取り巻く環境によって形成され、私たちは無意識に周囲に様々な働きかけを行いながら、形成された自己概念を維持している。
つまり、アンチロールモデルの脅威に流され、「なりたくない自分になってしまった」途端、それを正当化する“新たな自分”が現れる。自分の姿に居心地の悪さを感じながらも、「仕方がない」と受け入れてしまうのだ。なので、何がなんでも流されないように耐えなければならない。たかが自己概念、されど自己概念。なんともやっかいな代物なのだ。
いずれにしても、アンチロールモデルを批判するフェーズから、将来の自己概念形成のフェーズに進まない限り、理想論だけの“おばさん(おじさん)評論家”に成り下がる。
では、どうするか? そこで大切にしたいのが、「真面目な話し合い」だ。
ただただ、同世代の人たちとざっくばらんに、真面目に話す。真面目な話し合いだから、不真面目はダメ。ただの話し合いだから、会議とか研修でもない。
子どものこと、夫のこと、妻のこと、父親のこと、母親のこと、部下のこと、同期のこと、上司のこと、さらには自分自身のこと……。そんな自分を取り囲む人間関係の中で起きている出来事を、ひたすら真面目に話す。それが、自己概念の修正と形成に役立つと共に、直面しているさまざまな問題に、小さな適応をもたらすのである。
真面目な話し合い、やっていますか?
「真面目な話し合い」は、キャリア発達心理学者のエドガー・H・シャインが、今から40年以上前に、キャリアの壁を乗り越える上での手段の1つとして提案したもの。
キャリア発達の第一人者でもあるシャイン博士は、20代や30代前半のキャリア初期から中期は、他者、特に上司の手ほどきが重要になるが、経験知と心理的資源が豊かな40代では、自ら建設的な対処を行わない限り、真の解決につながらないと説いた。
「真面目な話し合い」を提案したとき、多くの人たちは、「カウンセラーや専門家のいない中で、話し合っても意味がない。負の感情の分かち合いでしかないし、ただの相互依存にしかならない。『盲人を導く盲人』のようなものだ」と、批判した。
ところが実際に「真面目な話し合い」を経験してもらうと、各々のやり方で、それぞれの問題に具体的な行動が喚起され、小さな適応が認められたのである。
「若いときから続けてきた妻との月1回のデートがめんどくさくなった」という話を聞いた男性は、「出張の帰りに、妻とレストランで待ち合わせをしてみよう」と思いついた。この男性は、その頃、子どもが独立し、妻との生活が“変化”し、妻と衝突が増えたことに悩んでいたそうだ。
また、ある人は、「真面目に話し合うことの心地よさ」に気付き、毎朝犬の散歩に夫婦で出かけることを日課にし、散歩の時間を夫婦の真面目な話し合いの時間にした。
どれもこれも彼らが直面している多次元的な問題を、100%解決させるものではない。だが、同世代の他者の経験を知ると、自分が直面する変化に少しだけ適応するためのアイデアが浮かぶ。
同世代のリアルな声が、自分の“今”を見つめる拡大鏡となり、進むべき道の輪郭が浮かび上がる。
スイスの精神科医・心理学者で分析心理学の創始者として知られるカール・グスタフ・ユングは、40代からの人生を“人生の午後”に例える一方で、「個性化」という過程に踏み出せば、危機を乗り越えることができると主張した。で、「個性化」に向かうには、その前提として、「危機を危機と認識」し、「現実を受け止める勇気」を持つことが重要だと説いた。
「個性化」とはこの先の自分の姿、すなわち自己概念であり、アンチロールモデルがちらついたときに「危機は危機と認識」される。そして、「現実を受け止める勇気」は、同世代の人たちとあれこれ真面目に話すことで持つことができる。
そういえば若いときには、「真面目な話なんて、ダッサ~」などと毛嫌いしていたっけ。甘えたおばさん女の子も、「え~っ、真面目に話すの~?」と、キャッ、キャッはしゃぐのだろうか。……ふむ。気をつけよう……。
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