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 本記事は2009年4月10日に「日経ビジネスオンライン」の「人生の諸問題」に掲載されたものです。語り手の岡 康道さんが2020年7月31日にお亡くなりになり、追悼の意を込めて、再掲載させていただきました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

(日経ビジネス電子版編集部)

 竹を割った反対の「もちをついた」性格の男たち--前回(「女々しきぼくらの餅つき合戦」)から引き続き、「女々しきおじさん」問題を語っている岡さんと小田嶋さん。それが「雄々しさ」、そして「おじさん」「おばさん」に変わっていく―― 。

クリエイティブディレクター 岡 康道氏 (写真:大槻 純一、以下同)

:女々しさという言葉には、あまりいいイメージはないと思うんだけど、でも、女々しいやつの方が、ものを作るには向いているはずなんですよね。やっぱり雄々しい人は、何かを書いたり作ったりはしないと思う。

小田嶋:竹を割った人たちは、あまりね。だって、すぱすぱ言っちゃうからね。

:TUGBOATにだっていないよ、そんな竹を割ったような人は。みんなそれぞれで、もちをついているもんね(笑)。

小田嶋:だからしょうがないんだよね。ある種、それで飯を食っているんだもん。

:だから、そういうことがだめだ、って、思わなくていいような気がするんだよね。とりわけ中学生や高校生の男の子だったりするならば、もう。

もちをつくことを恐れるな!

小田嶋:レトリックみたいなものの出発点って、自分が個人的に嫌だったり、つらかったり、女々しく反芻していたりすることだから。それを違う形で表現したいな、ということが修辞だったりする。

:そうですよ。だけど学校の教育の場ではさ、やっぱり竹を割ったような青年がいい青年だ、と言われて、クラスでも人気者になったり、先生もかわいがったりする。もちをついているようなやつって、もう嫌われちゃうわけじゃない?

 だけどさ、もちをつかざるを得ないんだ、と、そういう青年たちや、少年少女たちこそ大事だよね。

小田嶋:推薦することじゃないけど。

:うん。推薦することじゃないな、確かに。ただ、なっちゃう人はなっちゃう。だから、なっても恐れることはない、と僕は言いたい。

小田嶋:アメリカ人の間でも、女々しさがコントロールできているか、といえば、そんなことはないわけで、颯爽としたコミュニケーションの裏では、それこそ「ブロークバック・マウンテン」みたいな世界もあるわけだよ。あの映画で描かれている、アメリカのゲイの人たちの内面は、やっぱり身に迫るものがある。

どういうことですか?

コラムニスト 小田嶋隆氏

小田嶋:女々しさというのは、我々の中のゲイ的な部分というものにも重なると思うんだけど。それは男色そのものという意味じゃないのだけれども・・・・・・。何というか、自分の中にだって、これは明るくないぞ、とか、表に出せないぞ、とかいうやっかいな感情はあって、多分それはリビドーにかかわってもいると思う。ゲイの人たちというのは、その最も大切なリビドーの部分が、そもそも承認不能な形で存在している。だから、とても大変なわけだよ。

 いくらファッションセンスがあろうが、どんなにアーティスティックな才能があろうが、好きな人間が女じゃなくて、男だというそのことで、相手から「えっ、何、気味の悪いことを言ってるの?」という反応が返ってくる。そのような形でしか人を愛せない、というのは、これはすごいことでしょう。

 セクシャリティはゲイではないにしても、我々にだって違うところで、その感情への覚えはあるわけよ。うまくまとめることは難しいけど、何というか、後ろ暗さですかね。

「義」と「恋」は案外近いモノ

:別の言い方をすると、同性へのあこがれというんですかね。これ、基本的には13歳ぐらいから口にしないことになっているんだけど、でも実は結構あって。

 特に運動をずっと続けていると、上級生のあの選手のようになりたい、という思いが強いモチベーションになったりする。だから運動部はわりと近いものがあるというかさ。プラトニックな部分では、結構、恋に近いものを抱いたりしている場合があるよ。

小田嶋:セックスというものを人間の関係性としてとらえれば、男女間と男男間でもそんなに変わるものじゃない、ということはあるでしょう、

:集団スポーツに加えて、やくざの任侠の世界なんかもそうだと思いますね。セックスはしないけれども、その代わりに死ぬ、あるいは、その人のために牢屋に入るわけだよね。高倉健の「網走番外地」とか。

小田嶋:義のために死す、というか。

:そうそう。義と書いてゲイと読む、みたいな。