アツシ:ロマン主義的な芸術観とか文学観とか思想観とか、そういうものが生きていたというのはやっぱり60年代までだろうと思うんですよ。で、80年代以降というのは、もうクソ・リアリズムの世界じゃないですか。

 我々の思春期はその端境期にあって、思想的に生きるのが正しいとか、文学や芸術に人生を賭けるのが本当の生き方だとか、そういう錯覚みたいな理念は残っていたんだけども、でも、肌で感じていたのはすでにクソ・リアリズムの風潮だったという、とても中途半端な環境だったんだよね。

:田中康夫、泉麻人だからね、80年代は。

アツシ:だから、そのために僕たちの人生とかは非常に中途半端になってしまった。

 思想とか文学とか芸術とかを通じて知った価値観によって、目の前にある現実の生活を批判しているわけなんだけど、その根拠にしている理念の方が、すでに死につつある幻想だということも分かっている。そこで、現実に照らして理念を批判する方向に行くのだけど、とにかく自分が持っている価値観も冷笑し、自分たちが実際に歩みだしている現実の生活も冷笑し、どっちにしても冷笑してしまうと。

行き場がないじゃないですか。

アツシ:それで僕らはインポ野郎になってしまった、という感じだと思いますね。インポというのは、やる気がないわけじゃないんです。僕にせよ、小田嶋さんにせよ、やる気はあるわけです。死につつある理念としての文学とか思想だとかというのを知っていて、やる気はあるんだけども、やろうとすると今度は自分で自分を冷笑してしまう。

クリエイティブディレクター 岡 康道氏

:「僕らは」というのは、小田嶋とアツシのことだよね、念のため。

アツシ:兄貴の場合は、現実をゲームとしてとらえて、悪ふざけすることで切り抜けようということだよね。悪ふざけしてガッツポーズを出していけば、それで生き抜けるのではないか、という仮説の下にやっていけた人かな、と僕は思うんだけど。

:ますますばかみたいだな。

小田嶋:インポテンツは非常に分かりやすいね。

俺は急降下、あなたは急上昇

アツシ:60年代は男の時代ですよね、暴力と破壊と生産とって。で、80年代は女の時代。60年代は基本的に男しかいなかった。80年代は女しかいなかった。70年代というのは、その狭間にあってインポ野郎しかいなかった。

小田嶋:インポテンツって欲望がないんじゃないんだよね。欲望はあるけどそれを行使できないんだ、という。

アツシ:70年代の初めに流行っていた歌って、例えば「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」とかでしょう。あれ、映画「卒業」の最後のシーン()を理想としつつも俺はできないんだよ、という歌じゃないですか。

(※恋する女性がいろいろあって別の男と結婚することになったが、その結婚式でダスティン・ホフマン扮する主人公が彼女を奪取する)

 あるいは「ウイスキーの小瓶」だっけ、みなみらんぼう。あれだってやる気がないわけじゃないんだけど、でも、どうせな、みたいな歌で。そして行きつく果てが四畳半でうじうじしているというあれ。

「神田川」の世界に行くわけですね。

アツシ:ただしそれは男の話で、女性の方はその間に四畳半なんか知らないわよ、というユーミンが出てきて、80年代に向かって上昇していくんです。下降していく男たちと上昇していく女たちとの対比は、それは見事で。

四畳半と海辺のホテルという格差が出てくるわけですね。

小田嶋:あれ、バイバイとか言われて、ママに言い付けに行かれちゃうわけだから、たまったもんじゃないね。

「ルージュの伝言」ですね。

小田嶋:ママから電話で叱ってもらう、って、いくらなんでもひどいよ。

:だったら僕はお前らの中にいてインポにならないように努力したのかもしれない。

アツシ:そう言う兄貴にしてみても、中途半端さというのは感じていると思うわけよ。つまり、理念によって現実を批判し、現実によって理念を批判する癖が付いたがために、何をやっても本気じゃない感じがするでしょう?

:それは・・・・・・。

アツシ:するでしょう。何をやっても本気じゃない感じがするから、例え自分がやっていることがうまくいっているとしても、何か偽物くさいんだよね。

:嫌なことを言うね。

アツシ:だから、70年代の中途半端さ、偽物くささ、みずからの冷笑によって身動きが取れなくなった自分の、その先の答えとして、それぞれの生き方があるな、というふうに思うわけですね。

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