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 なぜ、矛先が最後に日本に向かうのか。理由は聞かなくてもわかる。中国にとっての敗者が日本であり続けるからだ。あるいは日本を敗者と位置付けることが、中国共産党政権の正統性を主張するよりどころだからだ。60年代の自由主義と共産主義の戦いで敗者となり、のちの改革開放によって国際経済のけん引役のポジションに立ってからは自由主義陣営の「勝ち組」に準主役級で招き入れられている中国共産党にとって、唯一の共産主義としての勝利は抗日戦争だけだからだ。インドネシアの事件については、敗者としても勝ち組としても、糾弾することは難しい。だが、日本に対しては勝者として糾弾し続けなければ、中国共産党の存在意義すら揺らいでしまう。

情緒を超えて、歴史に迫れ

 20世紀に行われた数多くの虐殺の中で、南京事件の規模がどの程度のものか、という精査はもはや必要とされなくなり、30万人という数字が事実のように国際社会に定着しつつある。それを許したのは、正直に思うところを言えば、「人道」を政治・外交カードではなく、情緒としてとらえがちの日本人の性質だと思う。犠牲者の規模に関わりなく、非道は非道であったと反省する。私自身もそういう情緒の人間だ。だが、政治家・外交官のレベルになると、そういう情緒の「人道」だけを唱えるだけではダメだろう。

 過去の虐殺・戦争犯罪について検証するジャーナリズムは日本にも多々あるが、たいていは、取材者が単純に悪行を断罪し、責任を糾弾するタイプの情緒的な構成になる。だが本当は、いくつもの国家の思惑、権力闘争、時代の潮流とタイミングが重なって起きる歴史事件に、善悪の色を付けること自体が難しい。

 米国も関与、利用した930事件について、こんな風にニュートラルに、虐殺の構造と心理に迫りながらエンタメ性の強いドキュメンタリー作品を作った米国のジャーナリズムの実力を見ると、日本のジャーナリズムになぜこういう取材ができないかと思う。虐殺のおぞましさへの吐き気を覚えながらも、虐殺者はなぜ虐殺者となったか、断罪ではなく、その背景と真理をとき明かそうとすることが、未来に起きるかもしれない虐殺を防ぐ有効な手立てだというのに。

 日本が過去の敗戦の歴史を心理的にきちんと清算できずに、いまだ敗者ポジションに甘んじ続ける状況にあるのは、日本のジャーナリズムの未熟さだといわれても仕方ないのか、という感想も持ったのも付け加えておく。