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 930事件とはどういう事件だったか。

 オランダの植民地支配からインドネシアを解放した建国の父・スカルノ政権下で、主要な政治勢力は3つあった。スカルノ大統領、インドネシア陸軍、そしてインドネシア共産党だ。

 スカルノ政権は独立後、植民地時代の遺産否定の立場から、外資排除を徹底し、農村改革を行い、民族資本の発展を目指した。だが、この経済政策は失敗、厳しいインフレと食料不足に見舞われた。こういう状態で、国民の団結を誘い、不満を外部にそらすために、外交上は対外強硬姿勢をアピール。隣国にできた親英国・マレーシア連邦を相手に「コンフロンタシ」(対立)と呼ばれる軍事・外交衝突を繰り返し、ついには国連を脱退した。インドネシア国内ではエコノミストや右派政治家、特に軍主流派の間でスカルノ政権の迷走に危機感を募らせていた。

 内政が不安定化する中、スカルノはインドネシア共産党(PKI)勢力の支持に全面的に頼る。最盛期、PKIは党員500万人、共産主義青年団300万人、支持者1000万人と、非社会主義国中で最大規模の共産党に成長していた。中ソ対立後は中国側に立ち、当時のインドネシア共産党書記アイディットは5回も毛沢東と直接面会し、自らを「毛沢東の小学生」と名乗った。スカルノとしては、共産党の力を借りて陸軍勢力を牽制して政権の安定を探ろうとしていたのだろうが、当然中国側にはジャカルタを拠点に紅色革命を輸出し、東南アジアに共産主義政権を樹立したい思惑はあった。

クーデター未遂後、犠牲者300万人

 そういう状況下で事件は起きた。インドネシア政府の公式見解によれば、1965年9月30日深夜、大統領親衛隊第一大隊長のウントゥン・ビン・シャムスリ中佐率いる国軍左派部隊が陸軍トップ6人を殺害し、革命評議会設置を宣言。だがこのクーデターを、戦略予備軍司令官スハルト少将が速やかに制圧し、クーデターは未遂に終わった。

 この事件の関与を疑われたスカルノはスハルトに治安秩序回復の全権を委譲、スハルトは革命評議会と呼応した共産党勢力の一掃をはかる。このとき、「赤狩り」に動員されたのは兵士ではなく、一般市民から構成される民兵集団だった。特にプレマンと呼ばれる親米のチンピラたちの虐殺手法は凄惨を極めた。100万人規模とも300万人規模ともいわれた、この時の虐殺犠牲者の中には推計30万~40万人の華僑が含まれる。だが華僑たちの少なからずが、実は共産主義者ではなく、親中華民国の商人たちだったといわれている。貧困にあえぐ市民たちが、裕福な華僑商人を妬んでいたことが背景にあった。

 クーデターを制圧し「共産主義の脅威から国を守った」スハルトは1966年にスカルノから大統領権限を委譲され、スカルノは軟禁される。プレマンら「虐殺者」たちもインドネシア政府にとっては国を守った英雄だ。今も彼らは共産主義者をいかにやっつけたかを正義として語る。その現実が映画に映し出されている。