※この記事は日経ビジネスオンラインに、2011年5月11日に掲載したものを再編集して転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。
インド経済の潜在力を語るとき、12億人という人口だけでなく、数学の力がよく引用される。学校で九九にとどまらず19×19まで覚えさせるというエピソード。11×11以上は計算機を使うか筆算するものと思い込んでいる日本人にとって、それは脅威と映る。かように学力は目に見えない国力としてオーラを放つ。
それがために、経済協力開発機(OECD)の学力テストでフィンランドが総合で上位になると、かの国の教育システムに注目しはじめる。公用語を英語にしたシンガポールに対するトピックも同様だ。
教育は常に関心の的だ。特に産業力や経済的繁栄との関係で捉えられる。しかし、ここ10年、OECDの学力テストでベスト10に入っているのはG8で日本とカナダだけだ。米国もフランスもベスト10には程遠い。おおむね、成長軌道に入った国が上位に並んでいる。経済的に成熟した国の学力は、下がっていく傾向にある。
学力テストの好成績は、国にとってブランドとなりうるだろう。上海は、上位に食い込んで話題になったし、中国式の教育方針を紹介した本は米国でもベストセラーになっている。中国系米国人が「米国式は褒めすぎで甘い」と書けば米国人に受け、しかし中国の国内では「今の上海で、そんなスパルタ式の教育は古い」と言われている。
最近、ソーシャルメディアの普及と相まって、メディアリテラシーの重要性がよく語られる。読解力を考える時、私が思うことがある。ヘルシンキの空港とミラノの空港、それぞれの待合室で本を読んでいる人の割合を見れば即座に分かることがある。南欧の人は北欧の人よりも読書をしない。南欧の人は製品マニュアルも北欧の人のように読まないで、直感でボタンを回したり押している。つまり、期待される読解力とは、地域によって異なると考えるべきではないかと思う。
教育のあり方は、このようにローカルの状況や習慣、価値観の違いを強く反映するように思える。では、グローバルに通じる教育方法はあるのだろうか。長年、世界各国に独自の教育方法を普及させてきた公文式学習法の事例をみてみよう。
外国人に支持される公文式
公文式は創立者の公文公(くもん とおる)氏が長男のために1954年に始めた学習法が原型になっている。1974年には、初めてニューヨークに算数教室を開いた。日本人駐在員の子弟を対象としたもので、その後に開いたロンドンや台湾も同じコンセプトだった。その公文式が日本人以外の子供を対象にしたのは1980年代以降のことだった。
現在では北米、南米、アジア、オセアニア、ヨーロッパ、中東、アフリカと世界46カ国に広まり、日本を含めた学習者の総数は441万人。日本国内が148万人だから、海外の子供の方が圧倒的に多い(2011年3月現在)。そして、公文研究会は連結売上高が711億3500万円に達している(2010年3月期)。
公文式の基本は「読み書き計算」である。主要科目は数学と国語。国語とは日本語だけでなく、英語やスペイン語、中国語、ポルトガル語、タイ語といった外国語も含まれる。インドネシア語や中国語による英語教材もある。だが、社会や理科といった科目は扱っていない。
目標は「自分で微分積分をマスター」
通常、学習塾は学校教育の補完である。それに対して、公文式は学校カリキュラムの「サブ」という存在ではなく、独立したカリキュラムとなっている。したがって、公文式を理解するには、この学習法が目標とする到達点を知らなければならない。
公文教育研究会海外業務支援室長の山脇浩氏はこう答える。
「公文式にとっての最終目標は何かと問われれば、『高校教材を自学自習で』というのが答えになります。学年にかかわらず、自学自習で微分積分を解法できる状態になることを指しています」
この説明は、公文式に縁のない方にはやや唐突な回答かもしれないが、創立者が自らの学習法を世に広めようと思った動機を聞くと、なるほどと合点がいくだろう。
公文公氏は、高校の数学教師として教壇に立っていた頃、数学ができないために人生の選択肢を狭めてしまった多くの子供たちを見てきた。「文系の生徒」が、自ら積極的にその道を選んでいるわけではない。数学ができないために、文系に行かざるを得なくなってしまうのだ。一方、「理系の生徒」は理系と文系の両方に進む選択肢を持っている。この自由度の違いは、「数学が分かるかどうか」にかかっている。
また、公文公氏の息子である公文毅氏は、小学6年生の時に、微分の問題を自学自習で解けるようになった。そのため、学校生活が、学校の勉強に追われることなく、余裕を持って過ごすことができたという。要するに、漠然と悩むことが多い思春期に存分に悩み、読書や友人との語らいに時間を費やすことができる。
この2つの事例を経験することで、公文公氏は、自学自習の習慣により、学校のカリキュラムに依存しない自分の学習法を持つ意義を悟った。微分積分のような高度な数学を、自学自習できる力が獲得できれば、世の中のおおよそのことは自分で学べる、と。このために、優れた計算力と読解力を基礎として持っている必要がある。
公文式の目標をくだいて解説すれば、そうなる。
国によって学習システムはまったく違う
イタリアの小学校に通う息子の教科書や学習法を見て驚くことがある。いや、驚くことばかりと言ってもいい。例えば、「エジプト古代文字を使って作文する」という宿題を出されていた。私は日本で、古文の読み方は勉強したが、古文を使って作文することはなかった。
割り算の筆算の仕方も日本と異なる。例えば、日本で7÷3を計算する場合、まず2をたて、3×2で6を書く。そして7-6は1とおろす。そこで1の横に0を書いて、10のなかに3がいくつあるか、という計算をする。
一方、イタリアの筆算では、2をたてた後、3×2の6を書かずに、ダイレクトに1を書く。即ち、7-6は暗算の領域なので記載しない。一桁ならいいだろうと思うが、三桁の計算も筆記しない。正直、慣れていない私には、なかなか難儀な方法だ。
これは、私が経験したほんの一部を紹介したにすぎない。だが、こうしたことからも、世界各国で学習の仕方とその考え方が千差万別であることは容易に想像がつく。
学習方法の一つに、「スパイラル方式」というものがある。例えば、小学校2年生で簡単な割り算や分数まで学習し、3年生に加減乗除の少し複雑なものを習得する。さらに混合、カッコつきなどが出る。それぞれの段階で全体像をみせながら、ステップを踏むごとに、内容のレベルを深めていく。これは世界の多くの国で採用されているシステムだ。日本の教育カリキュラムでも取り入れられている。
一方、「マスタリー方式」というものもある。これは、まず足し算なら三桁でも四桁でも自由に操れるように学習する。その上で、はじめて引き算を習う。そして、足し算と引き算に全く問題なくなった段階で、掛け算や割り算にステップを移す。割り算の基礎力ができているからこそ、割り算の変形である分数計算が素早く扱える。こういう方針に則っている。
公文の方式は、後者のマスタリー方式である。スパイラル方式は米国でも採用されているが、「この方法にはアメリカでも賛否両論があります」と山脇氏は語る。
西洋的思考と日本的思考のハイブリッド
私はスパイラル式とマスタリー式の2つの存在を知り、あることを連想した。前者は最初に全体像を描きブレイクダウンしてディテールを決める西洋的思考方法、後者はディテールから積み上げ結果的に全体像を作り上げる日本的思考方式…。つまり、スパイラル式は西洋的思考と相性が良く、マスタリー式は日本的思考と合っているのではないか、と思えてしまう。
どちらが良い悪いではない。2つの思考の傾向が各文化にあり、ことの目的と内容によって効果の優劣が違ってくることがある。例えば、二酸化炭素削減に対する環境政策などは、最初に最悪ケースを想定するところからブログラミングがはじまる。ゴール設定の明確化がすべての前提になる。これは西洋型だ。日本型は段階を重視し「Aの事態が完全に把握できたら、Bの状況把握を試み、そのうえで総合的な解決策を考えよう」という考え方をする。
私は公文式をみる限り、大きな目標の設定やユニバーサルな価値合理性の追求という面で西洋思考方法に近いものがあり、プログラム自身は小さな目標を積み上げる日本的思考方法に馴染みやすいのではないかという印象を持った。実際、どの方式がどこの文化の属するということはない。だが、この2つの方向からのアプローチの組み合わせであるからこそ、より普遍性のあるメソッドとして海外への普及が可能になったのではないかと思う。
イタリア式の割り算の方法は、それなりに合理的だが、引き算、掛け算の暗算力がものをいう。しかし、暗算するほどに、それらを各段階で徹底してマスターするような教育にはなっていない、と見える。目標設定と実践方法の間に乖離があるのではないか、と思えてしまう。親の杞憂ならいいが…。
公文式を欲する国とは
1980年代後半、当時の西ドイツの教育の評価は高く、自国のシステムに絶対的な自信を持っていた。一方、日本といえば「受験戦争」のイメージが強かった。公文式にとっては逆風が吹いていた。しかし、同時期にサッチャーの教育改革が進行していた英国では、確固たるメソッドとして公文式が評価されやすい環境があった。ドイツも、後になって教育システムの崩壊が語られるようになり、公文式の学習者数も伸びていった。
海外駐在で世界各国をまたがって異動する会社員の子弟が、各国のカリキュラムの差異に振り回されずに学ぶことができる――。公文式は、そうした便宜性がよく語られる。これは、海外赴任家族の問題を救済する、という視点で公文の海外展開の成功を説いている。だが、国の状況によっては、国の教育システムに対する「もう一つの価値」として公文式が重用されているのだ。各国の教育カリキュラムに準拠しない公文式の強さがここにある。
冒頭で紹介したように、アジアの新興国の学力向上は目覚ましいものがある。そして、公文式はこうした諸国で学習者数を増やしている。所得に余裕がでて教育費によりお金をかけられるようになり、経済成長と自分の子供たちの学力向上が相乗効果のように伸びていく時期を迎えている。
欧州や北米において、公文式がどこの国で生まれた教育方法であるかは、今ではさほど問われないという。だが、「アジア諸国では、公文が日本で生み出された教育方法であることが強みになっている部分がある」と山脇氏は語る。教育メソッドの選択は、親が判断することになる。30代から40代の親が若い頃、アジアの経済チャンピオンとして、中国ではなく日本を羨望の眼差しで見てきた。これが現在、アジア諸国における「公文ブランド」に何らかの影響を与えていることは否定できない。
秀逸なローカリゼーション
現在(2011年)、公文が英国で展開する学習センターの95%は教会内にある。開催中、入り口に小さな案内を出している。英国では告知するにあたり、街並みの景観問題から看板を出しづらい。が、人の目はランドマークである教会には向いている。その場でどんな活動が行われているかは噂になりやすい。
このエピソードを聞いたとき、異国の市場への入り込み方としてベストだと思った。教育メソッドは一見して理解できるものではない。成果を目で確認するには時間がかかる。人々に興味を持たせるきっかけ作りとして、あるいは敷居をまたいでもらうために、教会の施設を利用することは非常に有効だと思う。こういう教室の形態に、各国事情に対応するローカリゼーションの工夫が見られる。
もちろん、教材にもローカリゼーションはある。算数の場合、当然ながら言語が異なるが、表記は基本的に同じだ。下の写真にあるのは、割り算の英国と日本の例で、「余り」の表示がローカライズされている。国語の例では、取り上げられる文学作品の違いが見られる。ポルトガル語教材では、ブラジル人作家の作品が多くなっている。
このようにパートごとにローカライズされているが、公文式の成功から学ぶべき点は、オリジナルのコンセプト自身が合理性に富み、ユニバーサルに通じる説得性を持っていることだろう。すなわち、公文式はメソッドの価値体系を普及させており、かつ、この分野で先行したモデルであったために、プログラムの構成を海外向けに根本的に見直す必要がなかった。空手が価値体系の移動であるため、ローカリゼーションをそれほど必要としないことと似ている。
日本のサービス産業が海外進出をしていくにあたり参考になる事例だと思う。
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