小田嶋:そこは分かったけど、後は難しかったですね(笑)。デ・ニーロも長いキャリアのある人だから映画オタクみたいなところがあって、凝りに凝った伏線を張り巡らしまくって、ここがこことつながるんだよ、みたいなことを山ほどやっているでしょう。だからあれ、仔細に観ると、ここの映像的暗喩はこういう意味なんだ、という場面がおそらく星の数ほどあるんだろうな、と。
岡:10回ぐらい観ないとな。
ビンの嵐に帆を高く揚げる
小田嶋:ただ昨晩DVDを観た中で、我ながらいいところに気が付いたな、と思う点が1つあって、それは冒頭に出てくるボトルシップの場面なんだよ。
注・エドワード・ウィルソンとその息子は、2人でボトルシップを作る時間だけ、唯一、父子の交流を持つことがあった。
小田嶋:あのボトルシップが結局、彼らの象徴でさ。決して海に出ることのない船、ということなのよ。
岡:かもしれないね。だってCIAといっても、真実に対して行動するわけじゃないからね。アメリカという国家という大きな瓶の中での…。
小田嶋:そうそう、コップの中の嵐じゃないけど、あるとらわれの中での英雄幻想でしょう。特にあの息子は、もろにボトルシップなんだよ。
岡:かわいそうだったよね、あの息子。小さいときに大人たちのパーティに連れられていって、おしっこ漏らしちゃう子でしょう。なのに僕もCIAの一員になるんだ、と。
小田嶋:エドワードの父子関係でいうと、息子とはもちろんなんだけど、父親との関係もすごく不幸なんだよ。
岡:エドワードのお父さんもすごいエスタブリッシュメントの軍人だったんだけど、息子が子供仲間とかくれんぼをしているときに、頭を撃って自殺しちゃうんだよね。それを息子のエドワードがクロゼットの中から目撃して。
小田嶋:あれは何が理由だったのかな。
岡:いや、筋が複雑で、はっきりとは分からないんだけど(笑)。多分、軍人として出世するために、ものすごく冷酷なことをしなければいけないのに、それがどうしてもできなくて、これで私は出世競争から大きく脱落してしまう、ということだったんじゃないかな。
自分、不器用ですから…
小田嶋:幼いマット・デイモンは、とっさに暴発事故で父が死んだように見せかけるんだよね。その息子が握りつぶした遺書に「I’m coward(アイム・カワード)」とあったんだよね。
その「臆病者」というのは死に値するものなんですか。
岡:アメリカ人にとってはそうなんでしょうね。

小田嶋:その対極に、「有能であれ、強くあれ」というあいつらの価値観があるわけですよ。それもアメリカ人の中でも、イェール大学だったり、ハーバード大学だったりと、ああいう学校で年間1000万円とかいう学費を払っているような家庭の、その家柄と愛国心というところの人たちですよ。
岡:だけどマット・デイモンの役柄にしても、あれ、不器用な男なんですよね、言ってみれば。優秀であり、有能であって、不器用だ、という。だからいいんだよ。
小田嶋:それこそが映画なんだけどさ。
優秀で不器用、というのは自己投影なんですか。
岡:自己投影って、いや、俺はあんまり不器用じゃないかもしれないけど、ははは。
一同:(しーん)
優秀であることは否定しない、と。
岡:あははは…。いや、だから俺はあんまり不器用じゃないかもしれないけど、でも、そうありたかった、みたいな話というのがあるでしょう、誰にだって。
小田嶋:まあね。
岡:優秀で小賢しいやつなんて、別に魅力はないじゃない? だけど、あいつはある種、正直なんだよ。
小田嶋:映画の中で、主人公が学生のときに教授に「君は極めて優秀だ」なんて言われていたりするじゃない。あれがあいつの一番弱いセリフなんだよ。だから仕事の中では極めて勤勉に真面目に努力をするじゃないですか。自分の優秀さを示したいという欲求が激しく強いんだよね。
岡:だって“選ばれし者”じゃないですか、自分の中では。それは優秀さというのを証明したい、と思うよね。
小田嶋:褒めてくれるなら、報酬はいらない、ぐらいにね。ただ女性関連にはまったく無力、というのは、やっぱり優秀ということの、片方のあり方だよね。ある突出したところの能力以外には、人間としてとても未熟だという。
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