「日経ビジネス電子版」の人気連載コラムニスト、小田嶋隆さんと、高校時代の級友、故・岡康道さん、そして清野由美さんの掛け合いによる連載「人生の諸問題」。「もう一度読みたい」とのリクエストにお応えしまして、第1回から掲載いたします。初出は以下のお知らせにございます。(以下は2021年の、最初の再掲載時のお知らせです。岡さんへの追悼記事も、ぜひお読みください)
本記事は2011年4月25日に「日経ビジネスオンライン」の「人生の諸問題」に掲載されたものです。語り手の岡 康道さんが2020年7月31日にお亡くなりになり、追悼の意を込めて、再掲載させていただきました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
(日経ビジネス電子版編集部)
小田嶋隆さんと濱野智史さんの対談シリーズも大団円に入りつつある5回目となりました。
「フェイスブック」の実名性と「ミクシィ」の匿名性。日本でミクシィが流行って、フェイスブックがまだそこまで普及していないことの背景にあるのが、この実名性と匿名性という特徴だ、というのは、よく耳にする議論です。
でも、濱野さんに言わせれば、「フェイスブックだろうが、ミクシィだろうが、大した違いはない」とのこと。「日本人の『世間』的なコミュニケーション作法が変わらない限り、いずれは同じ仕組みに落ち着いていくだろう」とまで言い切っています。
今回は、この日本特有と言っていい「世間」とソーシャルメディア、そして、アニメやマンガなどのおタク文化との関連について語っていただきました。「クールジャパン」が世界で評価を受けたのも、この「世間」力があったからとも。
この「世間」の正体とは――。小田嶋さんと濱野さんが読み解いていきます。
(前回から読む)
昨年末からのインターネット界の話題と言えば「フェイスブック」ですね。
濱野:フェイスブックに理念があるとすれば、それはインターネット上では匿名ではなく完全に実名をさらして、「これはすべてわたくし個人の行動であり、私は自分の発言・行動に責任を持ちます」というポリシーをはっきりさせているところですね。
小田嶋:我々日本人からすると、自分の顔とか属性とかを全部パブリックにさらして問題はないのか、と思うわけだけど、アメリカ人たちはそこを、「なぜなら個人って、そもそもそういうもんでしょう」って、さっと通過するのね。

1980年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学大学院・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員を経て、現在は、インターネット関連コンサルタントの「(株)日本技芸」でリサーチャー。主にウェブサービスにおける情報環境の分析や、ネットユーザーの実態調査を行う。著書『アーキテクチャの生態系』で第26回テレコム社会科学賞・奨励賞を受賞。(写真:陶山勉、以下同)
濱野:同時にアメリカ人は、プライバシーはものすごく大事である、という原理主義的な発想も強いわけです。「フェイスブック」に対しては、プライバシーを侵害するのでけしからんという消費者団体の反対もありましたし。
小田嶋:不思議ですよね。自己顕示欲が異常に強いくせに、プライバシーとか何とかってことも、ものすごく強く言う。
濱野:それが、彼らの中では一貫しているわけですよね。パブリックとプライベートの区別がはっきりしているというか。そのルーツは結局のところ、「この世界で信じられるのは自分のアイデンティティだけだ」という原理に行き着くと思うのですが。
小田嶋:あの人たちにとっては、プライバシーというものと自己顕示というのがワンセットなんですね。
濱野:我々から見ると相反するように見えるんですけど、彼らのメンタリティでは矛盾なくつながっているんでしょうね。
小田嶋:自分が自分であることって、そんなに大切なんだろうか。
日本ではフェイスブックよりも先に、「ミクシィ」が広まりました。それはどうしてだと思われますか。
濱野:そのことは本当によく質問されるんですが、お答えするのは難しいところなんです。日本のミクシィも、当初はみんなよく実名で登録していましたので、「2ちゃんねる」のような匿名的サイトとはそこが違っていて、だから安心できるのだ、なんて言っていたんですけどね。
小田嶋:阿部謹也さんという歴史学者が「日本世間学会」というのをやっていましたよね。俺は以前、ミクシィについて、「ソーシャルネットワークと言うけれど、そこにあるのは『ソーシャル』と言うよりは『世間』であろう」という文章を書いたことがあるんです。
濱野:実にその通りですよね。
小田嶋:アメリカや、その源流となるヨーロッパのアングロサクソン社会では、「個」が自立していないと「ソーシャル」との社会契約は存在しないわけだけど、日本では「個」がないくせに「関係」だけはあるという。それがまさしく「世間」の気持ち悪さと照合している感がありますよね。
ちなみに「世間」とは、英語で何と言うんでしょうか。
濱野:「世間」の英語訳については、日本の社会科学界隈でもよく議論されている問題で、まさに今、お名前の出た阿部謹也先生は、「パブリック・スフィア」、つまり「公共圏」が「世間」に相当するのではないかとおっしゃっていたのですが……
我々世間人の感覚で言うと、違いますね。
小田嶋:だから要するにないんですよ、英訳は。世間が許さない、世間体が悪い、渡る世間は鬼ばかり、と、その辺の世間という感覚って、英語を話す人たちの間にはないんだと思うよ。
濱野:ミクシィもそうですけど、日本だとあらゆる「ソーシャルメディア」は結局のところ「世間メディア」化していく、ということなんだと思うんですよね。きっと「ツイッター」もそうなると思います。というより、もはやそうなっていますよね。
ある特定の界隈の人たちがみんなツイッターを始めるようになると、それが「世間」になって、「私はツイッターはやらないけど、あの人がやっているから、やらないなりに常にのぞかないといけない」というように。それはまさに世間そのものなんです。
小田嶋:それこそ誰もうれしくないのに忘年会が開かれる、みたいな、そういう感じのが日本には延々とあるじゃない。
忘年会とか、社員旅行とか。でも、あれ、ネタとしては面白いですよ。
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